冬の厳しい寒さから開放されつつある時、それまで固く縮こまっていた人々の心も春を迎える喜びに、ついつい緩みがちになる。
 ましてや桜の咲く頃合にもなってしまえば、浮かれすぎて莫迦騒ぎも起こしたくなろうというものだ。
 それは〈区外〉だろうが〈区内〉であろうが全く同じ事で、お花見などという日本古来よりある風雅な伝統行事がいつのまにか別の目的にすり替わり、これを理由に宴会と化しドンチャン騒ぎをしてしまいたいという人間の心理はいずこも変わりはしない。
 そしてそんな人々のささやかなる愉しみを奪いたいなどと考えるほど、警察官もヤボではない。
 ヤボではないのだが・・・―――。


 その日は朝から、屍刑四郎はとても苛立っていた。
 細かな理由はいくつかある。
 まず、屍専用の湯呑みに気を利かしてお茶を煎れて持って来てくれた新米の女刑事が、あろうことか湯呑み茶碗を屍のデスクに置こうとした時に手を滑らせてしまい、屍の上着にお茶を引っ掛けて屍のお気に入りの湯呑み茶碗を壊してしまった。
 その際、屍の上着の女郎花の花から火を噴く騒ぎもあったのだが、これは即効消し止めたので大事に至らなくて済んだ。
 もともと厚意でしてくれた事だし、新米の女刑事は本当に申し訳なさそうに半ベソをかきながら何度も謝っていたので、これはまあいいとしよう。

 また、屍のデスクの向かい側のデスクで、〈新宿警察署〉名物の三大オカマ、井上刑事と笹川刑事と東刑事が「春の新色よ〜」、「ステキ〜。気分も明るくなっちゃうわよね〜」、「あたし、新しい恋にチャレンジするわ」、「ちょっと。言いなさいよ。誰よ。誰?」、「ヒ・ミ・ツ。うふふ・・・」などと言い合いながら女子高生のようにキャアキャアとじゃれ合いつつ、デスクの上でパタパタ・ペタペタとお互いの化粧ポーチを持ち寄って新しく買い込んだ化粧品を試し合っているのも、相当に鳥肌ものの気色の悪さだが、これもいつもの事なので我慢もしよう。
 たとえ犯人の取調室に行く前に相手がイケメンだと判ると、わざわざ化粧直しをして行くとしても、だ。
 見かけと趣味がどうあれ、一応これでも仕事に関しては有能な連中なのだ。

 苛立っている最大の理由は、屍の上司が手切れ金で揉めた愛人にマグナムでぶっ放され、全治二週間の入院という失態を侵してしまったために、屍がそれに替わってデスクワークも処理しなくてはならなくなった事であった。
 〈区外〉の常識で言えば、マグナムで胴体を撃たれてしまえば全治二週間どころでは済まないだろうが、生憎ここは〈新宿〉なのである。
 区役所通り沿いの白い医師の病院にすぐに担ぎ込まれていれば、そんなものは二〜三日で退院だったのだろうが、間が抜けたことに三流の藪医者の医院に担ぎ込まれてしまったために、症状がこじれて二週間の入院となってしまったのだ。

 それゆえに現場のために生まれてきたようなこの犯人退治に燃えている男が、無理やりデスクに縛り付けられてしまったのだから、機嫌が悪いのも当然な事といえるだろう。
 「あの野郎、いつか俺がぶっ放してくれる・・・」と心に固くそう誓いながらも、眼の前にバベルの塔の如く積み上げられている書類を、ウンザリしたように見つめている。
 そのほとんどは始末書であった。
 しかも恐らく三分の一は自分の仕出かした始末書ともなると、まあ自業自得と言えなくもないのだが・・・。
 屍は溜息をつきながら、その一枚を手に取って眼を通す。
 
「ねえ、屍さん。それで今日の夜はどうするの?」
 屍が座っている頭上から、何ともいえず妖艶でハスキーな女の声がした。しかもこの台詞の内容だけで判断すると、まるで大人の夜の魅惑的な約束を取り付けているように感じる。
 屍が眼だけをそちらに向けた。
 真っ赤なパンツスーツに黒い革ジャンを身に付けた、金髪ショートの美女が屍のデスクの前の方に寄り掛かっている。これだけなら色っぽいだけの美人だが、理知的なハシバミ色の瞳がそれだけではないのだと告げていた。
 そして〈新宿〉の美女は、同時に野獣である事も多い。

誰も寝てはならぬ
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