病院というある意味特殊ともいえる場所は、実に様々な事情を抱えた患者が訪れるものである。
 ある者は病魔に冒された身体の苦痛を和らげてくれるように訴えかけ治療をしてくれるように頼み込み、ある者は精神の抱える重責に耐え切れずに心を壊して運び込まれ、またある者は病院へ訪れる事ができず苦しんでいる家族の相談のためにすがりつくような想いでその門を叩く。
 いずれも病の内容や程度の差こそあれ、その症状も症例もさまざまではあるが、救いを求めて来ることに変わりはない。
 だが救いを求めてもいないのに来院するように強要され、嫌々に訪れるとなると話はいささか変わってくる。
 黒衣の若者がそうして〈旧区役跡〉に面した病院を訪れた時も、その類まれなる天与の美貌に、いつも通りの茫洋とした表情を浮かべながらどこか不満気だったのは、この病院の院長に顔を出したらどうだねと電話口でやんわりと提案されたからなのだが、決して無理強いされた言い方ではなかったにも拘わらずそのような不遜な態度が表情にあらわれた理由(わけ)は、どうやらあまりにもタイミング良く白い医師が自分に連絡をして来たために、天邪鬼の気があるこの黒衣の若者としてはそれが大変気に入らなかった・・・つまり癪に障ったというのがどうやら本音であったらしい。
 結論を言えば今それが一番、自分の中で葛藤していた問題だったわけで、心を見透かされたような不快さを味わい、思わず「こいつはデバガメか?」と内心で悪態をついたものの、かかって来た電話を無下に切ることもできなかったのだ。
 だが嫌なものには変わりがなく、だからできれば出向きたくなどなかったのだが、「君に関わる重大な出来事だ」と半ば脅すように念を入れて告げられたから、その若者はタンスからハンガーにかかっている黒いコートをしぶしぶ取り出して、一瞬躊躇うような素振りを見せた後、まるで何かを吹っ切るようにばさりと勢いよくコートを羽織って玄関へと向かったのだった。


 一体その病院の何処にあるとも知れない、内外の関係者からは神域と呼ばれるような院長室に、天罰が下りそうなくらいに乱暴な音をたててドアを開けてずかずかと入り込むなり、黒衣の若者は不貞腐れたような面持ちで、血溜まりのように紅いベルベットのソファにどかりと腰を掛けた。
 しかしこの暴挙ともいえる行動に対しても眉一つ動かすでもなく、ここの主である白い医師が黒檀のデスクの上に山と詰まれた羊皮紙の束から若者へと眼を向けると、その医師の人外の美貌に惑わされることもなく、黒衣の若者は不満そうにすぐさま口を開いた。
「なんで解った?」
 口調はのんびりとした良いとこの若旦那のそれだが、言葉遣いにやや焦りが見られる。
 それがこの若者が抱えている問題の深刻さを表していた。
 白い医師は暫くじっと若者を見つめると、おもむろに黒い革張りに黒檀の縁取りで重厚な装飾を施した椅子から優雅に立ち上がり、そしてゆっくりと若者に向かって歩み出した。
「今日、一体の遺体が病院に運び込まれた」
 まるで世間話をするような、何でもない口調である。
 あまりにも淡々とし過ぎていて、わざわざ人を呼び出しておいて、これから重大な事を打ち明けようとしているようにはとうてい思われない。だがこの医師が今迄にこの若者を呼び出しておいて、世間話だけで済ませたこともないのだ。
 白い医師のゆったりとした動きを追うように、黒衣の若者の視線がつられて移動する。
「その遺体は身体がいくつにも切断されていたが、それは刃物による切断というには滑らか過ぎ、かといって君の扱う糸で切断したものというには技が稚拙過ぎた。だが私は結論付けた」
 白い医師が若者の側に歩み寄り、その向かい側に立つ。
「君の仕業だな」
 黒衣の若者がじっと白い医師の顔を見る。
「念のために言っておくが、その遺体は私の患者ではないよ。安心したかね?」
「別に・・・」
 黒衣の若者はふいっと視線を逸らした。
「いつからだね?」
 頭上から降って来た澄んだ麗音の問いにも、視線を逸らしたままの動作で若者は暫くの間、言葉を発しようとはしなかったが、やがていつものように空しい反発を試みた。
「いつって・・・何が?」
 だが声にもいつものような覇気が見受けられない。
 ふいに頬に冷たいものが触れる。
 その医師の繊手であった。
 だがそれはたちどころに温かみを帯びて、その若者を落ち着かせる。
 そう。
 若者は動揺していたのだ。
 自分でもそれとは判らないくらいに・・・・・。
「せつら・・・」
 その医師が若者の名前を呼ぶ。
 いつかこの若者を呼んだ時と同じように。
 そしてその時とは、全く違う声音で。
「はっきりと言わなくてはならないかね?君のその右手の異常のことだ」
 せつらは顔を上げた。
 白い医師の冷厳な美貌のその黒瞳に、せつら自身の姿が映っている。いつもと変わらないように見られるその姿も、白い医師から見れば何処かが違って見えているのかもしれない。
 現に運び込まれた遺体を切断したのがせつらの仕業とは思えないものだと言いながらも、せつらの仕業だと言い切り、どちらの手を使って斬ったのかまで言い当て、さらにその手に異常があるとまで断言しているのである。
 せつらは観念したように肩の力を抜いた。
 いつのまにか身体にも力が入ってしまっていたようだった。
 せつらとしては、この医師だけには弱みを見せたくはないものだと、いつも思っているのだ。
 だが最後には、結局この医師に頼らなくてはならないことも、充分に承知しているのである。

「三日くらい前からだったか・・・。急に手が思うように動かなくなって・・・」
 白い医師はせつらの頬から手を離して、普段ならば絶対にしないような行動に出た。
 せつらの前に屈んで、片膝を大理石の床に敷いてあるペルシャ絨毯の上に付いたのである。
 このプライドの高い医師には、まずあり得ない様な行動であった。人前で膝を折るなどと。
 だがその深い黒瞳は患者に対する慈愛のそれと、想い人に対する情愛に溢れていた。
 そしてそっとせつらの右手を取り、その顔を見上げる。
「人捜しの仕事を辞めようと思ったのは、その時かね?」
 せつらの肩が揺れ、驚いたように白い医師の顔を視た。
 図星だったからである。
 だが辞めたとは、公言はしていない。
 単に本業が忙しくなったから暫くの間は休業していると言っているだけで、かかってくる電話での応対もそのように返答していたのだ。
 だから外谷にも知れてはいない筈だ。
 せつらの心の裡(うち)の事などは・・・・・。
 なのに、どうしてこの医師には解ってしまうのだろうか?
「だから・・・」
 せつらは力なく呟くように言葉を洩らした。
「なんで解った?」
 この医師から電話がかかって来た時に、きっとこの医師だったら気がついているだろうなとは思った。
 誰に解らなくても、きっとこの医師だったらせつらの心の裡を理解できるのだろうとも。
「以前に君が言ったのだ。誰かが呼ぶ声に耳を塞げば、手が動かなくなってしまうのだと・・・」
 それはかつて、白い医師がこの若者に向けて問い掛けた疑問への答えでもあったろうか。
 この医師は問うたのだ。
 なぜ人捜しなどを続けているのかと・・・・・。
 その時その真剣な問いに、この若者にしては珍しく真面目に答えたのだった。

「そんなに斬り口が荒かったかな?」
 せつらは微かに口元に笑みを浮かべながら、白い医師に問い掛けるでもなく呟いた。
 この若者がこんな風に淋しそうに笑うのも珍しい。
「秋せつらの神技と言うには余りにもお粗末なものだったな。あの程度の技ならば、この街の殺し屋でも、いくらでもやってのけるだろう。その場しのぎに自分の身を護るくらいならば何とかなるかもしれんが、命を懸けた闘いには向かんだろうな・・・」
「病院の執刀医の欠員のアルバイトも、だめかい?」
「我が病院の評判を落としたくはないのでな」
 この場の雰囲気をわざと壊そうとしているように、無理やりに言ってみせたかのようなせつらのいつもの軽口を、白い医師は生真面目な顔付きで返した。
「当分の間、ここの君の部屋で、療養してみてはどうかね?」
 ここの・・・というのは、このメフィスト病院の八階にある、せつらのためだけにあつらえた特別室のことである。大理石と黄金と絹で出来たその部屋の豪奢さは、実に比類なきものであるという。
 せつらは黙った。そしてポツリと言う。笑いを含んだ声で。
「やだ・・・。危ない」
 せつらの右手を握っていた白い医師の手に力がこもる。
「冗談で言っているのではないよ。君の身の安全のためにも助言している」

 確かに冗談ではないだろう。
 もし秋せつらの妖糸が以前のように振るえなければ、そしてその腕が衰えたと知れ渡れば、たちどころにせつらに恨みを抱く連中だのせつらを付け狙う連中だのが、大挙して西新宿のせつらの住居にひっきりなしに押しかけて来るようになるに違いない。
 今日、運び込まれた遺体は、そんなせつらを狙った一人の末路だろうが、次も同じようにかわせるとは限らない。今回は大した相手ではなかったから、たまたま無傷で済んだのだ。
 そしてそんなせつらの危うい状態を知っているのは、今のところこの医師だけなのである。


「自分の身くらい自分で護れる。大きなお世話だよ」
 相変わらずの意地っ張りで強気な減らず口に、白い医師も溜息を吐く。
 これはこの若者の前でだけ見せる、この医師の仕草である。
「力ずくというのは性に合わんがな、言う事を聞かん患者では仕方あるまい」
 白い医師はすっくと立ち上がると、せつらの両肩に自分の両手を掛けた。
「おい・・・」
 せつらの抗議をものともせずに、そのまませつらをソファの上に押し倒した。
 上から圧し掛かると、うむを言わせずにその唇を奪う。
 せつらがとっさに医師の身体を押し退けようとしても、白い医師はびくともしなかった。
「う・・・」
 何とか顔を背けると、荒い息を抑えて「やめろ」と訴える。
「自分の身くらい自分で護れるって、僕はそう言った。おまえ自身で試して欲しいかい?」
 あまり迫力のある口調ではないが、内容を考えればかなり凄まじい。
 どうやらこの若者なりに怒っているらしい。
 茫洋とした表情ながらも睨みつけているのは、要注意の危険信号である。
 この若者が本気を出せばどれ程怖ろしい存在に変貌するのか、この医師だけは知っている。
「今の君のなまくらな腕では、私の髪の毛の一本も斬れぬよ。それに君は認めたくはないかもしれないが、本心ではすべてを承知してここへ来たはずだ。違うかね?」
 突然、せつらの瞳からこの医師に対する反抗的な色合いが消えた。
 眼を伏せて、軽く下唇を噛む。
 そしてそれきり何も言おうとはしなかった。
「ここにいたまえ」
 そう言うと繊指でせつらの唇をなぞり、白い医師は再び自らの唇を重ねていった。

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