「そこ、何をしている!」
 落ち着いた美声だが厳しい叱咤が、宙に4〜5人でひとかたまりに浮かんでいる、五つあるグループのうちの一つに向けて放たれた。
 ―――――浮かんでいる?
 そう。それもそのはず。
 月の光の祝福を受けて悠々と背ではためかせているそれは、蝙蝠のごとく―――翼であった。


 ここは〈魔界都市〉。
 そしてそんな翼を背に持ち夜を跳梁(ちょうりょう)する一族というと、青白い肌や紅い唇、口元を覗かせる乱杭歯を見るまでも判る、吸血鬼であった。
 だがその吸血鬼の一群を一喝出来る者がいるとすれば、それは―――――。
「夜香様!」
「も・・・申し訳ありません!」
 その黒い一群に、ゆったりと背の翼を動かしながら品のいいイギリス風のスーツ姿に身を包んだ、戸山住宅に住まいをかまえる吸血鬼一族の若き当主は近づいていった。

「何を無駄話をしている。我らにはやらねばならぬ仕事がある。それでなくても厄介な事を片付けねばならないのだぞ」
 夜香の言う「やらねばならん」ことというのは、最近になって始めた事だが、〈区〉から頼まれた〈区内〉の見廻りのことである。
 夜目がきき、人間よりも発達した五感で〈区内〉の様子を警察に報告してまわる。事件そのものに直接関与はしなくていい。夜の散歩に出かける彼等の特性に目をつけた〈区長〉の発案であったが、報酬も出る事だし、夜香はこれを快く引き受けた。
 理由は他にもある。
 “戸山住宅の住人”ではなく“魔界都市の人間”になること、―――彼等の悲願であった。
 そのために〈区〉の役にたつことを少しでも行っておきたいという、夜香の一族の長としての思惑があったのだ。 だがそんな夜香の脳裏を、いつも横切る言葉がある。
 その言葉は、いつも彼を勇気付ける。



『ここは〈魔界都市〉だ。僕も君もすでにここの人間さ』

 そう自分達一族に言ってくれた若者がいる。
 人外の存在である夜香ですら、恍惚とせずにはおれないような美貌がうかんだ。
 彼には返しきれないほどの恩がある。
 命の恩人であるだけではない。


 かつて稀代の女吸血鬼に術をかけられ一族を裏切り、女の思うがままに操られ、女がその若者を愛している事に嫉妬してその若者を殺そうとした時にも、自分をなんとか元に戻そうと心を尽くしてくれた者―――命だけではない。
 尊厳も誇りも、魂ですらも彼に救われた。
 あれから何度も彼に借りは返したが、何度返しても返し足りない。
 それはもう、ただ恩を返すという行為だけではなくなっている事に、夜香はとうの昔に気付いてしまっていた。
 つまりこの若者の役に立つ事なら、彼の喜んでくれる顔を少しでも垣間見る事ができるなら、それだけで自分は幸せな気持ちになれるのだ。


 初めて逢った時から魅かれていた。
 そして心の奥底で怖れてもいた。 
 何故ならその若者は、人外の存在である夜香をも戦慄させる、もう一つの貌を持っていたから。
 だから自分のこの感情を、単純に恋だの愛だのと結論づける事はできなかった。
 ただ解っている事は―――これからその若者に逢う予定があり、その用件が先程自分が言った厄介事のためであろうとも、若者に逢える嬉しいという気持ちを抑える事ができないということだった。
 そのためにも部下の者達に巡回の指示を与え―――今夜はある理由により、いつもより人数は多い―――早くこの場を立ち去りたい夜香であったから、自然といつもより厳しいものの言い方になる。
 叱り飛ばすだけで済ませておけばよかったのにも関わらず、思わず問い詰めてしまった。
 そのことを後々、夜香は悔やむことになるのだが・・・。

「いったい何を話していた?」
 若き首領に尋ねられて、部下達は顔を見合わせた。
 このことを伝えてもいいものか、どうか、というふうに・・・。
 その部下のただならぬ気配に夜香は眉を寄せ、鋭利さを感じさせる美貌を少し訝しげにしかめた。
「どうした?何故、答えない?」
 当主の言葉は絶対である。
 それなのに彼等を言いよどませるとは。

「実は・・・最近、変な噂を小耳にはさみまして・・・」
 その一群の中でも、長い黒髪を後ろに束ねた、ひときわ端正な顔立ちの者が答えた。
 名前を白夜という。
「彼等の行方のことか?」
 その彼等というのが、どうやら夜香の言う厄介事らしいのだが・・・。
「いえ、そちらの方ではなくて・・・」
 白夜は慌てて手を横に振った。
「あの・・・、これはあくまでも噂ですから・・・」
 なおも言い辛そうにもったいぶる白夜に、夜香は苛立たしそうに促した。
 焦れた気持ちがそうさせる。
 ―――――黒衣の若者に早く逢いたい―――――

「だから、何だというのだ」
「実は・・・」
 その噂話を聴いて、―――夜香はこの上ないほどに仰天した。




 世の中には、知ってはならない事がある。
 見てはならないものもある。
 その方が心穏やかに幸福に、一生を過ごせることであろう。
 もっとも吸血鬼にとっての一生が、どれほどのものであるのかは定かではないが・・・。


 夜香の頭は、ぐわんぐわんと鳴り響いていた。
 ここが地面ならへたり込んでいるところだ。
 したがって宙から墜落しないだけ、夜香はたいした精神力の持ち主といえた。
“そんな・・・”
“いや・・・まさか・・・”
“だが・・・しかし、あり得ない事ではないが・・・”
“だが、だが、しかし・・・、あの人は以前にきっぱりとおれに否定したではないかっ!”

 様々な想いが頭の中を交錯したが、なんとか自分の気持ちを宥めすかし、とりあえずこの場にもっとも相応しい行動を示した。
「その噂・・・どこで聴いたかは後で訊くとして、決して他言はするな。いいな?」
 なけなしの当主としての威厳を総動員させ、その場を収めようとした夜香だったが、
「しかし、夜香様。〈区内〉ではもっぱらの噂ですよ。大っぴらに話してはいませんが、みんな知っています」
 止めの一撃が、夜香の脳天を貫いた。
「皆・・・知っている・・・だと?」
 愕然と夜香が発言の主を凝視めた。
 最近は吸血鬼の中にも茶パツの者やキムタクしている者がいるが、よほどだらしなくしていない限り、夜香も外見の格好は大目に見ている。
 ちなみにグループの中でもひときわ若く見えるその発言の主は、黒っぽいスーツを着てはいるが原色に近い色合いのシャツやネクタイ、茶パツにピアスで、まるで気品というものが感じられない。
 どこかのホストのような安っぽい、中身のない派手さが匂う。
 余計な事を言いやがって、と皆に小突き回されていた。
 夜香は先程の、白夜という吸血鬼に勢い込んで訊ねた。
「本当なのか?」

 白夜は横目で茶パツを睨みながら、言い辛そうに、それでもしっかりとした神妙な態度で答える。
 何とか誤魔かしたいと思っていたようだが、こうなってしまえば他に選択の余地はない。
「本当です」
 夜香はどん底に叩き落されるような気がしたが、噂はあくまでも噂だ。何としても自分だけはあの人を信じたい。
 だがしかし・・・、しかしだ。よりによってこんな噂を広める恐れ知らずの輩がいようとは―――。

 つまり噂の内容だが・・・―――、秋せつらとドクター・メフィストはデキている―――???
ロミオとジュリエットのように
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