02

〈魔界都市〉といえど、ゴシップネタに人々の関心が集まるのは〈区外〉と同じである。
 むしろ雑誌の種類やTVのワイド・ショーの本数でいえば、〈区外よりも多いだろうし、しかも質が超過激だ。
 自分の手柄話を自慢したくて著名人になるためにTVに出演したがるヤクザの親分や、雑誌に売り込みも兼ねて体験手記を投稿するハンターなど、引きも切らないという。
 したがってエロ、グロ、バイオレンス等、どんな嗜好性の持ち主をも満足させる情報に事欠かない〈魔界都市〉であった。
 しかしその中にあってもタブーは存在した。
 すなわち―――西新宿のせんべい屋と、区役所通りに住む白い医師に関する記事だけは、決して載せてはならない・・・・・。
 秋せつらの事であれば白い医師が黙ってはいないだろうし、白い医師の事であればその信望者が黙ってはいないだろう。

 汝、触れるなかれ・・・・・。

 だがそうはいっても、この街を象徴するような存在の二人の事であるから人々の口の端に上らずに済ませられる筈もなく、むしろ人々は憑かれたように話題にする。
 そう、まるで美しき魔物に魅入られたごとく。
 ただしこの二人の悪口だけは、命を捨てる覚悟でしたほうがいいだろうが・・・。
 しかしこの場合、その噂はどのような部類に入るのだろうか?



「おまえはいったい、誰からその話を聞いた?」
 少し気を取り直したところで、夜香は茶パツの吸血鬼に訊いた。
 事ここに至って、自分のやらかしたヘマに薄々気付きながらも、事態を完全に把握していない茶パツの吸血鬼は脳天気に答えた。
「歌舞伎町にあるバーガー屋のウェイトレスからです」
 廻りの連中は俯いて、あらぬ方向を向いている。
 次の事態を予測するかのように。
 果たして、夜香の激昂がとんだ。

「おまえも・・・、おまえもまさか、その娘に手を出しているわけではないだろうなっ!」
 夜香の尋常ではない鬼気があたりに立ち込める。
 遠巻きにして様子を先程から窺っていた他のグループの連中が、それこそクモの子を散らすように四方八方へと飛び去っていった。
 茶パツは夜香の逆鱗に怯えながらも、何とか震える口調で必死に言い訳をした。
「そ・・・そんな・・・、スケボーを教えてもらっているだけです」
 第二のヘマをした事に気付いていない。

 だが夜香の意気を削ぐには充分だったようだ。
 若き当主は絶句したまま、しばらく立ち竦んで―――もとい、飛び竦んでしまった。
 恐ろしい沈黙がしばらく流れたが若き当主はおもむろに顔を上げると、朗々たる声で絶対的な威圧をもって、部下達に恫喝するように告げた。
「詳しい話はあとで聴く。時期が時期だ。各自責任をもって、自分の務めを断じて怠るな。以上っ!」
 それだけ言うと西新宿の方向へ体を向け、部下達を断ち切るように翼をゆったりと動かした。
 背後で何やら、どつき廻している音がする。
 たぶんあの茶パツが皆から痛めつけられているのだろう。
 何、かまうものか。
“帰ったら、あいつら全員締め上げてくれる”
 怒りを秘めたる決断に変えて、疑念がこれ以上胸中に拡がらないうちにと、朧げに心の中で光り輝く美貌の主に逢うべく、翼にいっそうの力を込めた。





 西新宿に住居を構えるその家の裏口のドアが、チャイムを押すまでもなく音もたてずに開いた途端、そこに闇が凝縮して人型を取ったような錯覚を夜香は覚えた。
 それでいて手と顔の部分だけが、やたらと眩く感じる。
 だが春の陽射しを想わせる―――もっとも夜香は春の陽射しを受けたことはないが―――その雰囲気は彼が“僕”である証だ。
 それとこの若者にしては珍しい事ながら歓迎しているふうに、茫としながらも口元に笑みを浮かべている。
 悶々と悩みながらやって来た夜香は、若者のその表情に救われる気がした。
 ふと若者が少し眉を寄せる。
「大変みたいだね・・・」
 これまた珍しい事に同情的な口調でねぎらう。
 最初なんのことか呑み込めなかった夜香も、これは自分の一族に起こった厄介事のことだと理解すると、
「いや、せつらさん・・・、その・・・」
 と、ごにょごにょと曖昧に答えた。
 どうやらせつらは夜香の憔悴しきった顔付きを見て、まさか自分と白い医師とのことで想い悩んでいるとは露程も考えず、夜香の当主としての気苦労を思いやってかけた言葉だったらしい。

“せつらさんが、おれのことを気にかけてくれている”
 それだけで夜香は嬉しさのあまり、天にも昇る心地であった。
 実際に夜香の場合は昇る事ができたわけだから、翼を出さなかったのが不思議であるが・・・。
「大丈夫です。おれは」 
 意識して声に元気を込めた。
 せつらの口元に、もう一度微笑が掠める。
 夜香はここに来た目的も忘れて、半ば恍惚と眺めた。
 本当にどうして自分はこの人の、こんなちょっとした表情を見るだけでこんなにも幸福な気持ちになれるのだろう。
「まあ・・・、とりあえず入んなさいよ」
 そう言って促すように、若者は体を居間の方へと向けた。
「おじゃま致します」
 夜香はそう言ってドアを閉め靴を脱ぐと、三和土(たたき)に片足をかけた。


 せつらに続いて居間に入る。
 TV、ビデオ、パソコンなどの電化製品が充実していることを除けば、炬燵と茶箪笥があるだけの実に質素な部屋であった。
 なんの装飾品もポスターや写真立ての一つもないが、それがかえって、せつららしいような気が夜香にはした。
 物珍しげにあたりを見廻す夜香に、どうぞと言ってせつらは座布団を勧めた。
「はっ、失礼します」
 正座するのが正しい作法だろうかと迷っているうちに、楽にしていいよ、とせつらの声が掛かった。
 それでは、と炬燵の中で胡坐をかく。
 せつらはというと、炬燵の台の上に急須や湯呑み茶碗を並べている。
 何をするのかと夜香が興味深げに見守っていると、急須にお茶の葉を入れようとしたところで、あっ、とせつらの手が止まる。
 そして今夜訪れた客は誰だったのかを憶い出すかのように、上目遣いで夜香を見つめた。
 ついいつもの習慣でしてしまったことなのだが、相手は・・・。

「いただきます」
 夜香が口を開く。
 せつらが眼をまるくした。
「だけど・・・、大丈夫?」
 おもわず訊ねてしまう。
 吸血鬼は水に弱い。
 お湯だって、たいして変わるまい。
「多少でしたら・・・。それにせつらさんにお茶を煎れてもらえるのでしたら、喜んで」
 言ってから思わず力が入り過ぎていなかったかと気になった夜香だったが、せつらは気にしたふうもなく、大丈夫かなと首を傾げながらポットのお湯を急須にそそいでいる。
「どうぞ」
 そう言って、湯呑みを夜香の前に置く。

「いただきます」
 湯呑みを両手で持ち上げ唇を茶碗の端につけようとした時、夜香はせつらが、じっと自分を凝視めていることに気付いた。
 せつらにしてみれば吸血鬼が煎茶を飲むところなど、初めて見るのだろう。
 興味津々といったところだ。
 理由は子供の好奇心のように他愛もない無邪気なそれだったが、せつらさんに凝視められている、と意識しただけで夜香は自分の頬が紅くなるのを感じた。
 軽く一口、口を湿らせると気分を落ち着かせるようにして、湯呑みを台の上に置いた。

「どう?」
 せつらが面白そうに訊く。
 夜香はちょっと困ったように、
「結構なお手前でした、と言いたいところですが・・・、実はよくわからないんです」
 いささか情けないように答えた。
「だろうね」
 せつらは少し愉しそうに笑った。
 夜香も思わずつられて笑みを返す。
「あー、お茶菓子がまだだったな」
 ついでに煎餅も試してみたくなったらしい。
「あのー、おかまいなく」と慌てて言う夜香を尻目に、山盛りの煎餅の菓子鉢を、でんと台の上に置いた。
 これはどうにもリクエストに応えて、煎餅の一枚もせつらの前で食べて見せなくてはならなくなったようだ。 苦笑しつつも、それでせつらの喜ぶ顔が見られるならと、夜香は腹をくくる事に決めた。


「それで・・・」
 せつらは自分の湯呑み茶碗を口元へ運びつつ、
「話っていうのは、例のあれかな」
 と訊いてきた。
「ええ、そうなんです」
 夜香は気持ちを切り替えるようにして重々しく頷いた。