「とにかく変な感じだわさ」


 ここはメフィスト病院の院長室。
 その場所が何処にあるのか、病院内のスタッフの誰一人として知る者はいないと云われるその院長室で、縦よりも横の方が遥かに長さがありそうな太った女魔導師が、バンバンと腹を叩きながら喚いた。
 何段あるかわからない腹が、でぶんでぶんと揺れる。
 世にも怖ろしい光景であった。
 それを目にした者は一生涯呪われるかもしれない。

 といっても実物の本体がそこにいるわけではない。
 本人が映像で送って寄こしているのである。
 メフィスト病院の、しかも白い医師の院長室にそんなことをやってのけるのは大したものだが、これくらいのことは朝飯前だという、この図太い女魔導師らしい自己顕示欲の表われといえた。 
 とはいえ、送って寄こす前にわざわざ電話をかけてきて一応断りを入れるあたり、取りあえずこの白い医師にはそれなりに気を遣っているというか、一目置いて遠慮はしているらしい。
 それでも交換を通さないで直接、電話を入れてくることが出来るのは、仮にもヌーレンブルクを名乗っているこの女魔導師の真の実力といえよう。

 部屋は乳白色の光に満ちていた。
 所々で蒼と金色の色彩が交差し、物憂げな白い空間に朧げに溶け込んでゆく。
 眼には見えぬ天上を支えている虹色に輝ける柱は、伝説に聞くオリハルコンであるものか。
 その中央に黒檀の大デスクに肘をもたれ掛け、白く輝く医師は、最初にトンブ・ヌーレンブルクの言った台詞に、「ほう」という答えを返した。
 さして暇なわけでもないだろうに、患者でもない無礼な女にこうして普通に対応しているあたり、ヌーレンブルクの名に敬意を払っているのか、それともはなからこの太った魔導師を女と認めていないせいなのか・・・。
 あるいは、ただの気紛れなのかもしれない。
 いずれにしても、どの程度関心を持って聴いているのか、この医師の場合窺い知る事は不可能だが、それでもその恐るべき映像の相手に問いかける。



「どこがおかしいというのかね?」
その質問に対して太った女魔導師は、首を捻りながらダミ声で答えた。
「何がどうっていうわけじゃないけどね、街の妖気もいつもとおんなじだし、莫迦な悪さをする奴は後を断たない。だけどなんかね、なんかこう〈新宿〉自体がおとなしくしているような、そんな感じだよ」
 そしてそんな奇妙な感覚は、ここ三日前からあったのだと続けた。
 不思議でたまらないようにしきりに首を捻り、捻り過ぎて一回転してしまった女魔導師を静かに眺めながら、白い医師はもう一度、「ほう」と相槌をうってみせた。
「あらららら・・・」と、さらに勢いをつけて後ろの方に廻ろうとする首をよっこらせと元に戻し、トンブは気まずそうにオホンと咳払いをした。
 白い医師に莫迦にされたと思ったらしい。

「そうそう、そういや煎餅屋の若旦那」
 太った女魔導師にいきなり切り出されて、メフィストの表情が気持ちぴくりと動いた。
 もちろん女魔導師には判りはしない程度だ。
「ここんとこ音沙汰がしないね。店の方も閉めているみたいだよ」
「副業が忙しいようだ」
 初めてまともに会話らしい会話をメフィストはした。
 その声の調子からは何の感情も読み取れなかった。

 それに女魔導師はもう一度首を傾げ、とても納得がいかないというように、女とは思えないようなドラ声で唸ってさらに言った。
 ここぞと思って喰らいついたら離れない、執念深い性格が滲み出るようである。
「だけどあの若旦那が本業そっちのけでかかりっきりになっているっていうんなら、なんか騒ぎが起こっていたって不思議じゃないわさ。あんた、知らないのかい?」
 別にこの太った女魔導師がこんなことを白い医師に訊ねたのは、秋せつらの身を心配してのことではない。
 何かうまい儲け話がないかと、目を光らせているだけなのである。

「知らんな」
 メフィストの答えはにべもなかった。
 トンブは「むう」と唸って、それからは当たり障りのない世間話をいくつかすると、不満そうにぶでぶでと退散した。
 映像だけでも圧倒されそうな恐るべき女魔導師の消えた院長室には、いつも通りの幽玄ともいえる静寂さが戻って来ていた。
 その中にあってその静けさを破る事のできる唯一の存在が、ひっそりと呟いた。
「さしもの〈新宿〉も、一人の若者の機嫌を損ねるのだけは嫌とみえる」
 そして白い医師は口元に笑みを浮かべて、孔雀石でできた電話の受話器に手を伸ばしたのだった。

 さてその噂の若者、秋せつらはいったい何処にいるのだろう?


 果たして彼は〈西新宿〉の自宅にいた。
 本業の煎餅店には休業の札を掛け、副業の人捜しにかかってくる電話にもいっさい出ないで、不在のメーセージが流れるだけにしておいてある。
 もちろん店の方の電話にも、休業の御詫びのメッセージが流れるばかりである。
 食料をしこたま買い込み、全く外に出ようとはしない。
 何か身体の具合が悪くて外出も出来ないような状態なら主治医を呼びつけるはずだし、家の中を元気に動き回っている様子から病気のようでもない。
 要するに外部からの通信や関わりを一切シャットアウトしているらしいのだが、いったい彼は何をしているのだろうか?

 実は、秋せつらはストライキを起こしていた。
 誰にというわけではないがつまり、ぐーたらをしているというわけである。
 これにはせつらなりの、りっぱな理由がある。
 そしてそれには、とある事件が関係していた。
 ―――――その事件とは?




 その事件なのだが、メフィストのいつものようなお騒がせな好奇心の御蔭で、秘密裏にヴァチカンに保管されていた『聖杯』が、この〈新宿〉に持ち込まれてしまう事となった。
 実は全く余人には知られていない事だが、キリストの血を受けたとされるこの『聖杯』こそが、『人間界』から『天界』へのゲートになるという大層な秘密があったのだが、ゲートの門が開くのも世界で只一つ、この〈新宿〉だけなのである。
 メフィストはどのようなルートを使ってか『聖杯』の存在とそこに隠された秘密を知り、まあ言葉は悪いが、それを盗んだものと思われる。
 『聖杯』は迂闊に開放できないようにメフィストが呪文を施して“闇”で覆ってしまっていたのだが、その“闇”を取り払った時に、真の『天界』へのゲートが開いてしまうのだ。
 その正確な事実を知っているのはメフィストと、〈新宿区長〉に頼まれてそれを捜しに来て話を聞かされた、せつらだけである。
 だが〈魔界都市〉にそんなゲートが開かれてしまうと、どんな混乱がこの魔都のみならず、世界中に引き起こされてしまうのか知れたものではない。
 せつらは断固としてそれを阻止しメフィストに『聖杯』を返すように説得し、メフィストは意外にも何の条件も付けずにそれを快諾した。
 ――――――それが六日前。


 翌日、メフィストは約束を守って『聖杯』を“闇”から開放するため、せつらを送りがてら〈区外〉へとリムジンを向かわせた。
 メフィストとの待ち合わせの時間を早めにし、『聖杯』を受け渡す場所からやや離れた車中で“闇”から『聖杯』を取り出す作業を済ませると、黒衣の若者はコートのポケットに『聖杯』を押し込み、車から降りて目的の場所へと後も振り返らずに足早に向かった。
 またメフィストのリムジンも、せつらの仕事が終わるまで待とうともせずに、音もたてずに静かに立ち去って行った。
 もちろん、それはそれでいいのだ。
 なまじメフィストが出て来ようものなら話がこじれてややこしくなるだろうし、文字通り強盗の“犯人”に姿を現してもらっては困るのである。


 それにせつらが〈区長〉に出した条件のためにも、メフイストにはさっさといなくなってもらわなくてはならない。
 すなわち“犯人”を挙げないこと―――、当然の事だがこれは〈区長〉より『聖杯』捜しの要請があった当初から、恐らくこんな事をするのはメフィストが“犯人”であろうという目星がついていたために、引き受ける条件として出した内容である。
 それなりに深い付き合いのある友人を庇ったと言えば聞こえはいいが、ようするに面倒を避けたわけである。
 へたをすると常日頃からの白い医師との付き合いっぷりから、事件の共謀ともみられかねない。
 原因の元凶が元凶であるだけに、せつらとしては手早くこの仕事を済ませてしまいたかった。

 〈区長〉はその条件を承諾し、その意向は当然ヴァチカンにも伝わったはずだ。
 ――――――ところが。



 せつらがヴァチカンからやって来た使いの枢機卿に『聖杯』を渡した途端、その周りを取り囲んで警護に当たっていた黒服の男達が一斉に、せつらに銃を向けた。そして“犯人”を知っているのなら、何者であるのか言うように迫ったのである。

 せつらは顔色一つ変えない。
 代わりにせつらに、じっと見られた枢機卿の方が顔を赤らめてうろたえてしまった。黒服の男達はさすがに訓練が行き届いているらしく、せつらの美貌を目の当たりにしても取り乱す事はしなかったが、その鋼のような理性もせつらの微笑で吹き飛んでしまうかもしれない。
 枢機卿など言わずもがな、だ。
 だがせつらは自分の出した条件を主張し、嘘をついた。


 つまり自分は〈区内〉で情報を集めそれらしい物を捜したところ、〈新宿御苑〉に捨てられていたこれを発見した。だから盗んだ相手など始めから知る由も無いこと、またこうして無事に戻ってきたのだから今更、犯人捜しなど野暮なマネはしなさんな、ということだった。
 あきらかに嘘だと判りそうな、間が抜けたふざけた説明である。
 だが〈新宿〉であったならこの若者が秋せつらだと判明した時点で、その評判を聞いたことのあるちょっと利口な奴ならとっとと手を引くに違いないし、この若者のもう一つの貌(かお)を知っている者なら、この若者の外見やのんびりとした口調に騙されることもないだろう。
 しかしここは〈区外〉であり、相手は〈区外〉の人間であった。
 彼等には眼の前にいるのが、天使にも似たただの美しい若者にしか見えなかったのである。
 
 しかも神の御膝元である法王庁の金庫からそれは盗まれたのだから沽券にも係わるだろうし、何よりも『聖杯』はヴァチカンには存在しない事になっているのだ。
 メフィストが言っていた台詞ではないが、ヴァチカンが『聖杯』を所有しているということがヴァチカンにとってプラスのイメージにこそなれ、決してマイナスにはならない筈なのにそうまでして隠さねばならないところをみると、今は公表できない理由があるらしい。
 そしてメフィストがせつらに告げた『聖杯』に隠された“事実”がその裏付けに繋がっているとすると、ヴァチカンとしては『聖杯』の所在を盗んだ“犯人”が知っている理由と、盗んだ訳をなんとしても知らなくてはならないところだろう。


 だけどせつらにとっては、もうどうでもいいことなのであった。
 依頼された品物を渡したのだから、もう自分の仕事は終わったのである。
 あとは帰宅してのんびりと煎餅でも齧りながら、番茶でも啜っていたいところだろう。
 だからいつもの調子で、人を喰ったものの言い方になってしまったわけなのだが・・・。
  
 当然それで納得などするするわけのない相手はなおも食い下がって、何かを隠しているようだったらこちらにもそれなりの対応をするかもしれない、と脅迫してきた。
 そして我々にそのような対応をされた人間には、“死”よりも怖ろしい現実が待っている、のだとも・・・。

 彼等は、秋せつらを知らなかった。
 資料の上ではある程度、把握していたかもしれない。
 だが実際に本人に対面したのは、これが初めてだったのである。

「“死”よりも怖ろしい現実か・・・」
 せつらは言った。いつもと同じ声で。
 だが、いつもと同じ声ではなかった。
 小春日和の陽だまりのような、茫洋とした人懐っこさは消失してしまっていた。それに取って替わって、空気さえも凍りつくような鬼気が充満していた。


 後に、枢機卿は何度も回想する事になる。
 私は聖書の中に出てくるサタンに現実に会ってしまった、・・・・・と。
 そしてそれこそが、死ぬ事よりも遥かに怖ろしい現実であったと・・・―――――。
 枢機卿を含めたそこにいた全員が、目の前の黒衣の美しい人好きのするお坊ちゃん風の若者が、凄絶なまでの美貌の、死を司った魔人に変貌する様を目撃したのだ。
 誰もが身体の芯まで凍りつくような恐怖に戦きながら、動く事はおろか眼を逸らす事さえできなかったのである。
 
 そのあまりの美貌に。
 そのあまりの恐怖ゆえに。

 〈新宿〉においては白い医師と並ぶ美貌が、そして今は白い医師も上回る魔性の美貌の主が、静かに先程自分が言った言葉を繰り返した。
「“死”よりも怖ろしい現実―――、知りたいというのならば知ることも悪くはあるまい。だがここは〈新宿〉ではない。このまますんなりと別れたいというのなら、私は止めはしない」
 生き延びるためのチャンスは与えられたのだ。
 彼等は知るよしもなかったが、“私”となった若者がそのような行動に出るのは、非常に稀な事なのである。
 しかしそこにいる全員の心を占めていたのは、“死”に対する激しい誘惑だった。
 目の前の黒衣の若者の手に掛かって息絶えたいという、異常なまでの歓喜すら覚えるような昏い渇望だったのである。

 ―――――この若者の手に掛かって死んでしまえたら・・・――――――。



 その時、いきなり銃声が鳴り響いた。
 せつらに向けられたものではない。続いて、どさりという重い物が倒れるような、鈍い音が聞こえた。
 己の精神状態に耐え切れなくなった者が、自分の頭のこめかみに銃口をあてたのだ。
 辺りに濃密な血臭が立ち込める。
 身の毛がよだつような死の香りも、その若者にはこの上なく相応しいのかもしれない。
 自分達は“生贄”なのだ。
 この魔鳥のような黒い翼を被い拡げた、“死の使い”の美しさを讃えるための。
 甘い背徳的な虚無にも似た絶望が枢機卿の精神を侵食し始めた時、車からの微かな通信音が彼等を救った。
 せつらに促されて慌てて車内の電話を取ったところ、それはローマ法王からの直々のもので、『聖杯』を届けに来た者に一切の手出しはならず、そのまま〈新宿〉に無事に返すようにというものだった。
 後でせつらが聞いたところによると、〈区長〉がなんらかの形でヴァチカンに圧力を掛けたらしいのだが、せつらの命を救うはずの“神の代理人”からのメッセージが、はからずも彼等自身を救う形となったのである。


 妖糸を通して話の内容を聞いていたせつらは、静かな口調で訊ねた。
 それは優しく。囁くように。
「帰るかな?」
 枢機卿は自己喪失したかのようにだらしなく口を開けていたが、それでも必死に頷いた。
 懸命な判断であった。
安息日
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