02

 死を司る黒衣の魔人はおもむろにヴァチカンからの使者を眺め、次いで警護の者達を見渡すと何もかもに興味を失ったかのように踵を返し、足音も起てずにその場を立ち去って行った。 
 闇そのものを凝縮したかのような人影が完全に見えなくなると、ヴァチカンからの使者はようやく身体の強張っていた力を抜く事ができ、その場にへなへなと崩れ折れてしまったのだった。
 〈西新宿〉のせつらの自宅へボディーガードも伴ってわざわざ足を運んだ〈区長〉の梶原は、謝礼も兼ねて報酬の二倍の料金を秋せつらに差し出した。
 そして差し出しながら依頼人の無礼な態度について、何度も侘びを述べた。
 この若者は〈新宿〉にとって大切な存在なのだ。
 仕事絡みではあったが何度もこの街の危機を救った事もある。
 差し出した封筒になかなか手を出そうとしないせつらに、頭を下げてどうか受け取ってくれるように頼み込む。
 いつまでも〈新宿区長〉に頭を下げさせておくわけにもいかず、せつらは黙ってそれを受け取る事を承諾した。もともと今回の一件に関して、〈区長〉には何の責任のないのだ。
 「いやあ。実に申し訳なかったね。秋くん。また何かあったら、よろしく頼むよ」と梶原は何度も丁重に礼を言うと、御付の一行共々立ち去っていった。


 これで一先ず、一件落着という事になる。
 だがせつらの腹の虫がおさまったわけではない。
 多額の報酬を得たとはいえ、危うくヴァチカンの連中と〈区外〉でやり合いそうになった事を考えれば、せつらの立腹もやむを得ないといえた。
 しかも腐れ縁ともいえる、誰かのせいで。
 しかし次の仕事を一件抱えていたので、取りあえず気を取り直して出かけてみたものの―――これがまた、なんとも後味の悪い仕事で―――せつらはすっかり不貞腐れてしまった。
 すると後から後から、過去においてメフィストに迷惑を掛けられた事をあれもこれもいくつも憶い出し、再び腹が立ってきた。

“もう誰が何を言って、助けてくれって言ったって知るもんか!”
 こうしてせつらが、外部から連絡をすべてシャットアウトして家に引き篭もったのが三日前のことであった。




 夜の街を白い夢が通り過ぎてゆく。
 妖物や人間を問わず魂まで虜にしてしまう玲瓏たる美貌の主が、〈西新宿〉に向かって歩みを進めていた。
 ドクター・メフィストである。
 この三日間、メフィストは秋せつらの家に四度ほど電話を入れた。
 病院を出るつい先程も携帯電話に一度入れている。すべて留守番電話が作動するだけであった。
 それでも、せつらはきっと自宅にいる。
 メフィストには解るのである。そしてそれは太った女魔導師からの電話によって確信に変わった。
 街には妖気と瘴気がいつも通りに満ち溢れ、時に阿鼻叫喚の血生臭い事件が起こる。
 これもいつもと同じ光景であった。
 それなのに白い医師は、ふと足を止めておもむろに呟いた。
「なるほど・・・」
 いつもと変わらぬ〈新宿〉、これまたいつもと同じ魔の饗宴が繰り広げられているこの街のどこに、白い医師は異変をみてとったのか。
 そして彼はせつらの家に何をしに行こうとしているのか。
 白い影は再び何事もなかったかのように歩み始め、立ち込めて来た霧がその姿を覆い隠していった。

 さて、〈西新宿〉の秋煎餅店である。
 せつらはいつもの黒いタートルネックの綿のTシャツに、これもいつもながらの黒の綿パン、それに愛用の黒っぽい半纏を着て六畳の居間に居た。
 着用しているいずれも、何か特別にブランドの名が入っている品物にも見えない。
 ちょっと近所の衣料品を取り扱っている店で、適当に購入した物のように感じる。
 これくらい着ているものに無頓着で、お金をかけない若者も最近は珍しいだろう。
 だがこの若者が身に纏った瞬間、どんな安物の衣服も極上の糸で紡いだ高級品に見えてしまうから不思議である。
 それはともかくとして、身体の半分まで炬燵に突っ込み腕枕をしながらごろごろしている姿は、外見に似合わず優雅さとは程遠い有様であった。
 テレビは付けっ放し、炬燵の上には湯呑み茶碗と煎餅の入った菓子鉢、ポケットには湯が蓄えられレトルト食品は山のように積まれている。
 引き篭もりには万全の状態である。



 この三日間というもの、せつらにとっては実に静かな三日間であった。
 生まれてからこのかた、こんなに静かに過ごせたのは初めてじゃないかと思うくらいに・・・。
 何度か電話も入ったが音声は切ってあったし、そのままシカトした。
 たいした用ではないと勘が告げたので、そのまま放っておいたのだ。ぐーたらし過ぎて身体が鈍ってしまうかと思われたが、一度味わった自堕落な心地良さはなかなか手放す事ができず、寝転びながら大きく伸びをして、もう二日ばかり休んでやろうと決心した。
 ふっと、裏口の玄関へ視線を走らせる。
 チャイムは鳴っていない。
 せつらの網膜の奥を白い姿が横切った。
 せつらは軽く溜息を吐くと、もぞもぞと起き上がった。
 そのまま炬燵の台の上に顎を乗せ、瞼を閉じる。
 その時、チャイムが鳴った。
 一度。
 誰だかすぐに判った。
 あの一件のトラブルの張本人だ。
 いつも人に迷惑をかけて平然として、何を考えているのかわけの判らない奴だ。
 そんな奴のために、店を休む羽目にまでなった。
 そんな事を考えていると、だんだんまた腹が立ってきた。
 面と向かって文句を並べ立ててやってもいいが、せつらは居留守をつかうことに決めた。
 部屋の電気はついているが、夜半にちょっと外出する際、安全のために電気をつけっ放しにしておくということはよくある事である。
 せつらはじっとして気配を押し殺し、様子を窺った。


 チャイムは一度鳴ったきりで、誰かが居そうな気配もしない。
 それでもせつらには解るのだ。
“あいつはきっと居る”
 勘と、長年の付き合いがそういっている。
 十分が過ぎた。
“いったい、いつまで居るんだか・・・。”
 二十分が過ぎた。
“どーいうつもりなんだ。あいつ・・・!”
 通常は〈新宿〉においてなんの身を守る対策をたてないで、長時間同じ場所に居続ける事は命の危険にかかわってくるものと思った方がいい。
 もちろんあの医師は常識の通用する普通の人間ではないから、せつらが気にしたのはそんな事ではなかった。
 もっと単純に世間体を気にしたのである。
 あんなに目立つのに裏口にいつまでも居座られた日には、近所であらぬ噂をたてられてしまう。
 それでなくても奇妙な噂が〈区内〉を飛び交っているというのに・・・―――。
 せつらはもう一度、そっと溜息を吐いた。
 いいだろう、そっちがその気ならこっちだって考えがあるんだ、言いたいことは山ほどあるんだからなっ!、と言わんばかりに憤然と立ち上がった。
 そのまま裏口の玄関へと向かって扉のドアノブを摑むと、乱暴に開け放った。



 おもては月の光が溢れていた。
 確か今日は一日中曇っていて、せつらが一時間ばかり前に外を覗いた時にも、月は出ていなかったはずだ。
 だがそこは乙女心のなんとやらで―――お月様に心があればの話だが―――、己の自尊心を打ち砕いた相手であっても恋心を捧げた相手の行くところならば何処へでもついて回り、纏わり付きたいものなのだろう。 
 世界は夢幻の輝きの中にあった。
 そしてその中で、月の光が人の形を取っていた。 
 月の乙女の賛辞を一身に浴びたその姿は、一目見たあらゆる者の心を奪ってしまうのだが、今それを目の当たりにしている人間は、唯一この医師の魔力にも似た魅力が通じない相手ときている。
 せつらは憮然とした面持ちで腕を組んで、扉に寄り掛かっている。
 何をしに来たんだ、というふうに・・・。
 白い夢が口を開いた。
「珍しい格好だ」
 半纏を羽織ったまま出て来た、せつらの格好の事を言っているのである。
 声はうっとりするくらいに美しいが、内容はおちょくっているように聞こえて“夢”の台詞としてはあまり相応しくはない。
 案の条、せつらはむかっときたようで、白い医師を思いっきり睨みつけながら言った。
「僕がどんな格好をしていようとも大きなお世話だよ。病人はいないんだからな。人の格好をけなしに来ただけなら、とっとと帰れ」
 言っている内容は喧嘩腰だが、相変わらず育ちの良いお坊っちゃん風の、のんびりとしたもの言い方なので迫力はまるでなかった。
 しかし言っている相手が誰なのかを考えると、恐るべき蛮行といえた。


 メフイストはじっとせつらを凝視め、おもむろに口を開いた。
「〈新宿〉に叱られてしまったよ」
 せつらは少し眼を見開いた。
 〈新宿」に住む者以外が聞いたなら、なんのこっちゃっというところだが、〈新宿〉の住人ならばなんとなくでもこの意味は解る。
 この街には何か特別な意志が働いていると熟知しているからだ。
 そしてこの〈新宿〉の申し子といわれるせつらと、ドクター・メフィストであるならばなおさらのことである。
「お詫びに来た」
 せつらは今度は今度は驚いたように、まじまじと白い医師を眺めた。
 メフィストの出方如何によっては言いたいことをそれこそ山のように並べ立ててやるつもりだったが、まさか素直に侘びを入れてくるとは思わなかったのである。
 今度はせつらの方が、メフィストをじっと凝視める番だった。
「君にかけた迷惑、どうすれば償えるかな?」
 せつらはひょいと、肩を竦めた。
「よしてくれ。ドクター・メフィストにわざわざ償いをさせたなんて、誰かに知れたらそれこそ大迷惑だよ。―――だけどまあ・・・せっかくだから、お茶の一杯でも飲んでいけば?」
 そう言うとくるりと踵を返して、今の方へ足を向けた。
 メフイストの方はというと、玄関でせつらが話を聞いてくれるだけでいいものと思っていたようで、まさか招いてくれるものとは考えていなかったようだ。
 意外そうに、突っ立っている。
「何しているんだ?来いよ」
 せつらが居間から顔だけを覗かして言った。
「おじゃましよう」
 せつらに促されてようやく白い医師は、家の中へと足を踏み入れた。

 メフイストが居間に入っていくと、せつらはお茶の支度をしていた。
 急須にお茶の葉を入れポットのお湯を注ぎながら、メフイストの方を見ないできっぱりと言い放った。
「僕は今、休暇をとってぐーたらしている。誰のせいか解っているんなら、何も言わないで余計な事もするな」
「わかった・・・」
 そう一言いうと白い医師はせつらと同じように炬燵に入り、せつらの煎れてくれたお茶を黙々と飲み干した。



 木造の住まい独特の木と畳の匂い、緑茶のこっくりとしたやや甘い香り、テレビからは売れっ子のお笑い系のタレントが愚にもつかないギャグを飛ばして、それに反応したやらせのお客の笑い声がどっと流れてくる。
 部屋は暖かでぬくぬくと炬燵に入りながら、のんびりと湯呑み茶碗を傾ける。
 日本だったらどこの家にでも見られるありふれた光景であったが、そこに登場している二人はありふれた登場人物などではなかった。
 どんな場所もこの二人がただ居るというそれだけで、何もかもがこの世ならざる幻想の世界に変化してしまう。
 部屋は黄金に光り輝き、大気には芳しい香りが満ち溢れる。
 もし幸運にもそれを見ることを許される人間がいたら、そこに失われた神話の情景を思い描くだろう。
 そしてそこに繰り広げられる神々の恋物語を・・・・・。

 だが片方はともかく、もう片方の態度がロマンティックな夢のような妄想を見事に裏切っていた。
 この白い医師が傍らに居るのにこんな態度をとれる人間は、世界中を捜したって一人しかいない。
 そのたった一人である黒衣の若者は、メフィストにお茶をついだっきりそちらの方には眼もくれず、炬燵の台に両肘をつき湯呑み茶碗を口にあてがいながら、テレビの画面に見入っている。
 まるでメフィスト存在など忘れてしまったかのようである。
 メフィストは何をしているかというと、そんなせつらの態度に腹を立てる事もなく、黒衣の若者を興味深げに見つめている。
 故意的なものであるのかどうかわからないが、せつらの無視も全く堪えてはいないようである。
 家の中に入れただけでも良しとしているのか、どうか。

 実はこの白い医師は、別な考えに囚われていた。
 もしも・・・。もしも、と。
 もしもこの若者がごく平凡な普通の青年だったら、どうだっただろうか。
 こんな並外れた美貌ではなくそこそこに整った顔立ちで、〈新宿〉にも生まれず、浪蘭家との宿命の確執がある“秋”という姓も名乗らず、もちろん妖糸の技など使えない―――――そんな若者。
 “彼”はどんな人生を歩んだことだろう。
 だがそれはもう“秋せつら”ではなかったし、メフィストは“秋せつら”だったからこそ愛したのだ。
 そんなメフィストの想いを知ってか知らずか“〈新宿〉の象徴”ともいえる眼の前の若者は、しごく平凡な日常を茫洋とした面持ちでのんびりと味わっていた。



「そういえば腹がへったな・・・」
 ぼそりと呟く。
 それから憶い出したようにメフィストを見て、次いで後ろに積み上げてあるレトルト食品をちらりと眺め、流石に主治医の前でこんな物をもそもそと食べるのもどうかと思ったかどうかは知らないが、近所の大衆食堂のメニューを引っ張り出して振ってみせた。
「僕は出前を取るけど、おまえはどうする?」
 こんなことを〈魔界医師〉に訊ねるのもどうかと思うが、この若者の思考はやはり並ではないのであった。
 それに対して〈魔界医師〉はどう思ったものかメニューを受け取り、お品書きを眺めながら、君は何にするのかとせつらに訊いた。
「肉野菜炒め定食」
 メニューも見ないで、せつらは答えた。
 どうやらせつらの定番らしい。
「御一緒させて戴いていいのかね?」
 メフィストの問いに、せつらは再びひょいと肩を竦め、どうぞと返した。
「では、タンメンと餃子を」
 せつらは面白いものを選んだなとでもいうように、ふーんと頷くと電話を取り上げて大衆食堂に注文の連絡を入れた。


 そしてそれを済ませると、すくっと立ち上がって台所の方へと向かう。
 メフィストも立ち上がり、せつらの後に続く。
「座ってろって」
 せつらはやや煩そうに、メフィストを振り返りながら言った。
「何か作るのかな?」
 冷蔵庫からねぎだの味噌だのを取り出しているせつらを眺めながら、白い医師は訊ねた。
 どちらもせつらが最初に言った、余計な事をしたり口出ししたりしないという事を忘れつつある。
「味噌汁だ。こればっかりはお茶と同じで、食べる直前に作らないとうまくない。個人の好みもあるしね。食堂のは美味しくないんだ」
 煎餅屋の若主人らしいこだわりといえた。
 手早くねぎを切り刻む、せつらの包丁捌きを見ながらメフィストは頷いた。
 手際のいい刻みっぷりに感心しているようでもある。
 あと、具はわかめと油揚げでいいかい?と訊くせつらに、メフィストは充分だともう一度頷いてみせた。