






遠い夜空の下のかすかな笑い声。
豪奢なソファには黒いコート姿の若者の残像美。
ただ独り残された、白い麗人だけが立ち尽くす。
それは月の輝く夜に始まり、月の輝く夜に終わった。
とても“死闘”とはいえぬような優雅な戦いの後も、淡い吐息のような光が、まだその部屋には漂っていた。
その部屋・・・―――――、ここはどこか?
旧区役所跡に開業した病院の地下に、恐らく存在しているのではないかと噂される、白い病院長の院長室であった。
そしてその部屋の主(あるじ)は、苦笑とも満足したともいえない表情を麗貌にうかばせ、銀の糸を爪弾いたような声で呟いた。
「まだ終わりたくはないか・・・」
その問いに応えるように白い主の足元に、直径10cm程の真円の青白い光が絨毯の上にぽっと浮かんだ。
「彼を?」
白い主の発した声には微妙な、ある想いに駆られる人間だけが持つ響きが感じられた。
「面白い。だが、彼は・・・・・」
言葉の最初のほうは心底愉しげであった。
この主にも、そんな人間的な感情があったとは・・・。
だが愉しげなその声は切ないともいえる暗闇の中へと、優しく呑み込まれていった。
春の夜はそれだけで人々の心を落ち着かないものにさせる。
どこかうきうきと意味もなく嬉しくて、青く芽吹いた木々や草花の香りを心行くまで吸い込んでみたくなるだろうし、危険を承知で夜の散策を愉しみたくもなる。
ましてや、これ程までに見事な満月も一緒ともなれば。
この街から眺める月は世界中の何処から観るよりも美しい・・・とは、〈区内〉、〈区外〉の両方に共通した唯一の意見である。“呪われた邑(まち)”とはいえ、これだけは誇る事ができるのだった。
そしてその夜の月はひときわ妖しく輝き、さえざえと澄み切っていた。
あんまりにもテレビのアナウンサーが、「名月です。名月ですっ!」と連呼するものだから、中秋でもあるまいしとぶつぶつ呟きながら、秋せつらは裏の玄関の戸を開けて空を見上げた。
だが、納得した。
これはすごい。
まさに銀盆の月。
今にも空から落っこちてきそうな大きさもさることながら、凝視(みつ)めていると正気を失ってしまいそうな魔力すら感じる。
あんなにも美しく輝いているものが太陽からの光を跳ね返しているだけだなんて神への冒涜だ、とは誰が言ったものかは知らないが、この街に関してだけはそれは明らかに、特別な意志を持ってこの街の空に浮かんでいるのだ。
特に、今夜のこの月は。
そのせいだろうか、いつも以上に事件が多発しているともニュースが伝えるのは。
そのほとんどがキ●ガイじみた乱痴気騒ぎの挙句の果てともいえるような、喜劇の様相を帯びたものばかりだった。
せつらは腕を組んで扉に寄り掛かりながら、これと似たような状況が以前にもなかっただろうかと考えた。
記憶が符合した。
しばらく前になるが、あの夜もやはりこんな月が出ていたのだ。
〈魔界都市〉中が浮かれ狂っていた。
怪異な事が当たり前に起こる街なれど、そんな事は初めてであった。
ちょうどその日、せつらは副業の仕事でこの街を離れていたのだが、この街の異常な有様は〈区外〉にも伝わってきていた。
血で血を洗うような出来事が日常茶飯事に起こっているとはいえ、殺し合いですら互いに笑いながらに行ってるとなると、悲惨を通り越して滑稽以外の何ものでもない。
そんなこの街においてすらも奇妙な事件の数々が、ラジオやテレビを通じてバンバンせつらの耳に入ってきた。
それから三日後、白い医師から事のあらましを物語の御話を聴くように話してもらい、へえと理解したかどうかは解らないが、自分なりに結論をつけた秋せつらだったが―――。
つまりまたしても原因の全部・・・、とはいえないが少なくともその責任の一端はこいつのせいに違いない、というはっきりとした確信である。
もっともその騒ぎの原因となった理由が、それこそとんでもない存在に惚れられてしまったから・・・、ということらしいから、そんな経験なんぞ掃いて捨てるほどあるこの若者としては、多少は同情の余地はあろうかというものだが、自分のことは取りあえず棚に上げておいて、こんなふうに騒ぎを起こされるのは考えものだと、せつらは思っている。
だから今夜の見事過ぎるほどの名月の理由も、誰かさんに関わりのある事なのではないかと考えるのは、邪推だと言い切ってしまってもいいものだろうか。
アルバイトの女の子達は揃って、「今夜はデートなんですぅ〜」と甘い鼻声で言い訳をしてさっさと早引けはするし、月が出た途端に客足はぱったりと途絶えるし、煎餅屋の若主人としては憮然としながら居間で煎茶を啜っているより他に手はなかった。
まあ一時的な事かもしれないが、本業に対する営業妨害には敏感に反応するこの若者である。
困ったもんだ、と独りごちた。
ふと“あいつは何をしているんだろう・・・”ということが、せつらには妙に気になりだした。
せつらが関わっている事件には頼みもしないくせにしゃしゃり出てくる白い医者だったが、自分の揉め事に関しては一切、せつらに関わらせないようにしている―――・・・、らしいのだがそこのところもどうもよく解らない。
解りはしないのだが取り敢えず、向こうの争い事の真っ最中にこの医師から事情を聞いた憶えはなかった。
話を聞くのは、一先ず争い事が沈静化してからである。
またいつものせつらだったら、白い医師が何処で何をしていようと気にも留めないし、どんな面倒事だって、例えそれがこの〈新宿〉のみならず世界の命運を賭けるような大事件であったとしても、あいつが勝手に自分で何とかするさ、ぐらいにしか思わない筈なのだが―――メフィストはいったい今、何をしているのだろう。
そんなせつらは考え事をしながら、かれこれ15分ばかり裏の玄関の戸口で、不思議な今宵の月の光を浴びている。
月の光を浴び過ぎると気が狂う―――、とは誰かが云わなかっただろうか。
せつらは玄関の戸を閉め、居間へと戻った。
そして電話の受話器を取り上げ、メフィスト病院の案内係の番号をプッシュした。
受付けにメフィストの所在を確かめる。
受付けの女の子は、「院長は今、手術に立ち会ってらっしゃいます」と、朗らかな口調で答えた。
ふーん。
ということは、今回はあいつは関係がないのかな?
自分から電話があった事は知らせないでくれ、と言い含めてせつらは電話を切った。
何故、口止めしたのか解らない。
じっと電話機を視つめていたが、とても家に籠もっている気分ではなくなっていた。
外に出て、ぱーっと騒ぎたい感じである。
そう思うといてもたってもいられなくなって、ハンガーからコートを外した。
それを羽織ながらも、どうもこれは普通の状況ではないな・・・、と考えるゆとりがこの若者にはあった。
家の戸締まりをしっかりしてセキュリティ代わりに妖糸を張り巡らせると、もっとも月の影響を受けなさそうな人物に逢いに〈高田馬場〉の方角へと足を向けた。
石畳の坂に、魔法の呪文。
すすけたランプに、古びたブリキのベルの音。
摩訶不思議な品々を買い求めに、この世にはあり得ない禁断の秘薬を捜しに、あるいは人の手に負えぬ魔力から身を守る護符を求めて人々はここに訪れる。
中世の町並みを再現したようなこのロマンティックな建物が連ねるおとぎの国は、実際に魔術を生業とする、いささか物騒な妖人達が軒を並べる〈魔法街〉なのである。
空中から黒いコートをはためかせ音も起てずに舞い降りた黒衣の若者は、一際古びた煙突がいくつもにょきにょきと突き出ている、石造りの建物へと向かった。
オウムの形をしたインターホンに名前を名乗り、何の問題もなく家の中へと招き入れられる。
正式に招かれなければこの家には入れない。
例え無理やりに押し入ったとしても、五体満足で出てくる事はかなうまい。
ここはガーレンブルクの名を持つ者が住まう家なのだ。

