02

 中へ入ると薬草か何かのシナモンにも似たエキゾチックな懐かしいような香りが立ち込めており、香炉からは紫色の煙が幾筋も立ち上って、磨りガラスを填め込んだ窓に微妙な陰影を映し出していた。
 時折、ゼンマイか何かが軋む様な金属の触れ合う音がカチリとするだけで、時間が止まっているかのようなその空間に、スモーキーピンクのドレスに身を包んだ愛らしい少女が、両手をゆるく前で重ね合わせ、天使のように微笑みながらきちんとした姿勢で立っている。
「申し訳ございません。トンブ様は、只今留守でございます」
 そう言うと、本当に済まなさそうに小さな頭を下げた。
 ウェーブがかった金髪がきらきらと揺れ、ドレスと同じ色のリボンがふんわりと舞う。
 人形娘である。


 せつらは、そりゃあちょうど良かった、とは言わなかった。
 仮にも彼女の今の主人である。
 どれ程、どこかの女情報屋と性格も外見もいい勝負であろうとも、例え人間に見えなかろうとも・・・。
 だがこの場合は本音を言えば、不在の方が助かったのは事実である。
 だが替わりに別の言葉がついて出た。
「いや、いいんだ。君に用があったんだから・・・」
 こんな事をせつらに言われようものなら、どんな女性だってその場で卒倒してしまうだろう。
 この女殺しっ!、というような台詞だが本人に他意はない。
 また台詞を受けた女の子も、邪心も自己本位な欲望もまるでない精神(こころ)の持ち主であった。
 本当に嬉しそうに無邪気な笑みを浮かべている。
 この少女にとって、せつらとこうして語らっていられるだけでも至福の歓びなのである。
 それでも嬉しさのあまりいささかパニック状態に陥ったのか、両手で頬を押さえ慌てて、
「あっ・・・わたくしったら、お茶もお出ししませんで」
 ばたばたと台所へと向かった。
 その小さな背に、「おかまいなく」と声をかけたせつらの表情は、誰にも見せた事のない優しく穏やかなものであった。


 人形娘から差し出されたティーカップに入ったほうじ茶を啜りながら、「トンブはどうしたの?」と、どうでもいい事から訊ねてみた。
 いわば会話の切り出しで、深い意味などなにもない。
 だがここの太った女主人が近所の魔導師達と連れ立って、月見も兼ねたカラオケ大会に出かけたともなれば話は別である。
 思わずせつらは、へえ、と唸ってみせた。
 ここの女主人は素行も品行も態度も悪くこの〈魔法街〉でも、いってみれば鼻つまみ状態なのだが、本人だって自分より優れた魔導師などいやしないと、他人など頭っから莫迦にして見下してしまう性格の悪さから近所付き合いなど皆無に等しいのだ。
 その分、人形娘がいろいろと近所に対して心配りをしているのだが、太った女主人が片端から全部ちゃらにしてしまうので、この小さな娘は気苦労が絶えないのである。
 だからそのトンブが近所の連中とカラオケ大会に行くなんざ・・・―――――。

「何かの気まぐれでそんな気分になって、脅して張り倒して、無理やり引きずって連れて行ったとか?」
 せつらがこう言ったのも、無理はなかった。
 多少なりともトンブの人柄を知る者ならば十人が十人とも、誰もがこう考えることであろう。
「いえ、皆さん愉しそうに連れ立って行かれました」
 人形の少女は慎ましやかに、そう答えた。 
 ―――――月がとっても蒼いから・・・―――――
 意味もなく古い歌のフレーズが頭にうかぶ若者であった。

 魔導師連中と肩を組みながらダミ声でがなりまくっている巨大なカバの図を想像したせつらだったが、そんな想像を思わずしてしまったのはやむを得ないとしても、事態はかなり変である。
 ハルマゲドンの前兆と言ってもおかしくはない。
 ついでにここに来るまでの道すがらで見た光景も思い浮かべた。
 いつもながらせつらを一目見た途端に、女性は片っ端から腰砕け状態だったが、その格好が揃いも揃って全裸に近い状態だったのである。
 男はどうかというとこれも似たような風袋で、リオのカーニヴァルさながらに、ヤクザ系だのサラリーマンだのに関係なしに道路一杯に人々が踊り狂っていた。
 渋滞で進まなくなった車のボンネットでは運転手がステップを踏み、出動していた警官達もしまいには服を脱いで踊りまくるわ、歌いまくるわの大騒ぎな有様で、あちこちでそれこそ“放送禁止的(ピー)”な行為もおこなわれていた。



 老若男女を問わずせつらに欲情した連中の手をかいくぐって、こりゃ地上は無理だと、ビルの谷間を妖糸で繋いでここまで飛んできたわけなのだが・・・。
「今夜は変だと思わないかい?妖気も薄くなっているし」
 せつらは本題に入った。
 人形娘は、ええ、と小さく頷いて、
「まるで誰もが月に狂わされているような・・・。秋さんは何ともございませんか?」
 せつらは大丈夫だと答えた。
 少なくともおもての狂乱の仲間入りをするつもりは、毛頭ない。
 だがこんな夜に外に出る事自体が変わった行動を取っているのだが、本人はそのことに気付いていないのだ。
 それはようござました、と人形娘も安心したように微笑んだ。
 それからしばらくこの小さな愛しい娘と世間話をいくつかして、せつらは礼を言って〈高田馬場〉後にしたのであった。

 次の行き先は決まっていた。
 もっとも月の影響を受けそうな、夜の一族の住まう場所である。




 いつも不気味にすら感じる鬱蒼たる木立の黒い陰も、今夜ばかりは歓びにほの光っているように感じるのは気のせいだろうか。
 ちらりと木々に視線を走らせ、その間を素早く通り抜けると、コンクリートの外壁で覆われた建物群へと辿り着く。
 ここを形容する言葉は“静謐”という一言につきると、いつもせつらは思うのだが今夜は特にそう感じる。
 “夜”だというのに・・・・・。

 そんな疑問に駆られながらも住宅の受付けで、若き当主に逢いたいのだと〈戸山住宅〉の敷地内を守るガードマンに告げると、せつらを視て恍惚になりながらも、今夜は住宅内には誰もいないのだとガードマンは答えた。
 キチンと武装した、しっかりとしていそうな青年である。
 眼が正常だ。
 月の影響を受けない人間もいるらしい。
「誰もいないのかい?」
 せつらはいささか驚いたような声を上げた。
「ええ、皆出払ってしまって・・・」
 帰るに帰れないんですよと、どうやらせつらの事を知っているらしいこの青年は、顔見知りに会った安心も手伝ってかこうこぼした。
 勤めは日中だけのはずなのに生真面目な性格らしい。
 ここの当主と人柄がよく似ている。
 それはともかく、いかに夜活動する一族なれど、総出でいなくなってしまうのはやはりおかしい。
 何故ならばこの〈住宅〉は彼等の最後の安住の地であり、その住まいを守るために誰かが必ず〈住宅〉内に残って留守番をするというのは、自分の城を守る人間の感覚とそれほど変わるものではない。
 こんな街だからこそ彼等は安心して住まうことができ、こんな街だからこそ彼等はより以上に警戒を怠らないのである。
 あてのなくなったせつらは取り敢えず申し訳程度に、「ご苦労様ね」と労いの言葉をかけ首を傾げながら〈戸山住宅〉をあとにした。
 住人達の心配は全くしていない。
 この薄情者ッ!、と言われそうだが、不死身の連中を心配して何になろう。
 次に行くところは・・・、と考えながらしばらく歩いていると、頭上から聞き憶えのある若々しいバリトンの美声が落ちて来た。



「せつらさん」
 宙を見やる。
 巨大な満月を背に、蝙蝠の翼を持ったスーツ姿の、シャープな面持ちの美青年が舞い降りてきた。
 外見に似合わず威風堂々とした風格さえ感じさせるのは、この青年の生きてきた年月を物語ってはいないだろうか。
 〈戸山住宅〉の当主、夜香であった。
「申し訳ありません。行き違いになってしまったようで・・・」
 詫びる口調には人形の娘と同じような、せつらに対する限りない尊敬と、憧憬ともつかないような愛情が感じられた。 それと、微かな畏怖の念も。
「ガードマンが愚痴っていたけどね」
 こちらは相手が誰であろうとおかまいなしだ。
 数百年は生きているはずの、この青年のなりをした吸血鬼を、親しみを込めた口調でからかう。
「はい。彼には今しがた、帰ってもらいました。留守番できそうな連中をようやくひっ捕まえてきましたんで・・・」
 やれやれというような夜香の言い方であった。
「大変なの?やっぱり」
 せつらはそう言って、お月様を指差した。
 中空にはひときわ鮮やかに煌々と、巨大な月が輝いている。
 それがせつらには、どうにも気に入らない。
 なんだかさっきよりも明るくないか?