
例年よりも厳しい冬を迎えたその年の〈魔界都市〉は、妖物だの世界制覇を目論んでいる魔導士だのではなくて、悪性のインフルエンザに悩まされることになった。
そして我らが愛すべき主人公、秋せつらが、やはり同じようにインフルエンザに罹ったのもその年のことであった。
「おカゼですの?」
姿を見ずにしても、たちどころにその愛くるしい外見が想像できそうな少女の軽やかな声が、石造りの部屋に響いた。
空色のサテン地にたっぷりとしたギャザー、そしてこれまた同色のレースと繊細な白いレースをふんだんに使ったドレスの上に、豊かな金髪の巻き毛がまばゆく輝いている。
スラブ系の顔立ちの肌は真っ白に透き通っており、唇はピンクのバラの蕾のように愛らしい。
長い睫毛の下では、憂いを含んだような碧い瞳が揺れている。
『少女アリス』をそのまま現実のものにしたかのような夢の少女は、お茶の支度をしている時に、立て続けにくしゃみをした若者にこう尋ねたのであった。
「くしゃみ三回はカゼ、と言いますわ」
見た目の歳に似合わず古風な喩えを知っているものだ。
だがこれは生身の人間にあらず、女魔導士ガレーン・ヌーレンブルクの造った人形の娘なのであった。
確かに只の少女でない証拠に、そこらの女性など及びもつかないほどの気品と超然たる雰囲気を兼ね備えている。しかしその声は労わりと思いやりに満ちており、碧い瞳で心配そうに眼の前の黒衣の若者を見つめている。
「そう、かな?」
秋せつらはちょっと微笑しながら、コーヒー・カップに入ったほうじ茶を、こくりと一口飲んだ。
「〈区内〉で悪性のインフルエンザが流行っているようですし、大事に至らないうちに早めに病院へ行かれたほうがいいと思います」
人形娘が必要以上にせつらの身を案じるには、もちろんちゃんとした理由があった。
インフルエンザといっても、魔界都市〈新宿〉で流行しているインフルエンザである。この街独特の妖気と瘴気をたっぷりと含んで奇怪ともいえる変化を遂げた病原菌は、魔気に対して抵抗力の強い〈魔界都市〉の住人にも猛威を奮い、日に二十人以上の死者を出すに至っている。
もちろん〈区外〉から来た、この街のそういった妖気に対してまるで免疫のない観光客などはひとたまりもなく、たちどころにやられてしまう。そのために観光客によってかなりの収益を上げている〈新宿〉にとっては、かなりの打撃をこうむる事になった。
このインフルエンザの最大の特徴は習慣性がある事である。
一度感染し完治したからといって決して油断はできず、普通であれば病が完治すれば身体はある程度の免疫を持つものであるのだが、この〈魔界都市〉独特のインフルエンザに限って言えば再度罹りやすくなる。
しかも罹る都度に患者の抵抗力や体力、病気に対する免疫性もかなり奪われていく上に、何度も回数を重ねていくごとに完治してから感染するまでの期間がだんだんと短くなっていってしまう。
度重なる発熱・下痢や嘔吐などを繰り返し、肺炎や腸炎などの他の病気を併発するか、もしくはそうでない者も、最期には衰弱死に至る場合が多かった。
だからいくらせつらといえども、という心配が人形娘にはあったのである。
しかも例年にはない厳しい寒さで、インフルエンザ以外にも数多くの凍死者を出している。その凍死の仕方もこの街特有の奇異なものが多く、あらゆる状況にも適応できるように設計された万能の住宅地の住まいの中で、暖房設備に全くの故障がみられないにもかかわらず、一家全員が凍死していたという例があるくらいだ。
弱者の頭上には常に滅びの旋律が流れ、この街に選ばれたように思われる者ですら例外ではない。それはあらゆる者に等しく“生”と“死”を与えるこの街の絶対的な掟であった。
「それにこの吹雪・・・、こんなに酷くなると判っておりましたら、わざわざおいで戴きませんでしたものを」
そう言うと、人形娘は困ったように窓の外を眺めた。
実をいうと、せつらがヌーレンブルク家にいるわけは、せんべいの配達に来ていたためであった。
新しくこの家の主人におさまった太った女魔導士は前の主人と違って、何かと近所の評判が悪かった。そのために時折、人形娘は近所に付け届けをする。幸い新しい主人は旅行で留守にしているため、(なんでも懸賞に当たったとかで、オーストラリアに豪遊中とか。
今頃はカンガルーと一緒に飛び跳ねていることだろう)この隙に挨拶に廻ろうと思い立ったわけだ。
なんにしたらいいかと考えた人形娘の頭に浮かんだのが、秋せんべい店のことであった。
早速、せつらの家に電話をかけると、人形娘の気苦労が痛いほど解るせつらは、自分が配達をしようかと申し出た。
いくら何でもそんな事をして戴くわけにはいきません、と言う人形娘に、じゃあ、まとめて届けるだけでも、とやって来たせつらであったが・・・。
お昼ごろに出て来た時には怪しい雲行きであったものの、まさか2メートル先の視界もおぼつか無いほどの無吹雪になるとは思いもかけず、帰るに帰れなくなり、せつらとしてはのんびりとお茶をすすっているしか手はなかった。
店の女の子達に、帰れるようなら帰ってもいいよと携帯を使って電話を入れてみたが、やはりというか向こうも店から一歩も出る事ができず、しかも〈区外〉からの観光客の女の子達も閉じ込められている状態なのだという。まあ、お茶でも出してあげて、様子を見ながらタクシーを使って送ってあげてもいいし、君達もタクシーを使って帰ってもいいから、と指示を与えて電話をきった。
だが三時間を経過してようやく吹雪はその猛威を和らげたらしく、いくぶんおさまりそうな兆しを見せ始めている。
「本当に申し訳ありません。秋さま」
恐縮しきって小さな頭を下げる人形娘に対して、この若者にしては珍しく慌てて手を振り、人形娘の顔を覗き込むように身をかがめ、
「もう少しすれば外に出ても平気そうだ。悪いけど、もうちょっと居させてもらえるかな?」
「それはもちろんですわ」
済まなそうにしながらも、せつらと少しでも長くいられるためか、どこか嬉しそうな人形娘であった。
せめて身体を温かくしていらして下さいと、せつらのためにもう一杯お茶を煎れ、甘い物が苦手なせつらではあるが、これなら大丈夫かしらと、買って来たカステラをもう二切れ皿の上にのせる。
にっこりとしながら、ありがとうと、黄金色の菓子を口に運ぶせつらを眺める人形娘は、本当に幸福そうであった。
外は吹雪が吹き荒れようとも少なくてもここは、一時の穏やかで満ち足りたパラダイスが存在していたのであった。
結局、せつらが店に戻ることができたのが、夕方の五時をまわってからだった。
ちょうど店を閉めて帰ろうとするバイトや観光客の女の子達に会うことができ、バイトの女の子には労いの言葉をかけ、せつら目当てで来たものの、お目当てはいないわ、店には長時間閉じ込められるわで、不貞腐れ気味の観光客の女の子達には店の主人として愛想を振り撒く。
当然、せつらの美貌を目の当たりにした者の運命として、へなへなと腰砕けになった女の子達へサービスいっぱいの介抱を提供して、実に機嫌よく、また来ますという約束を残して、ホテルへ帰って貰ったのだった。
ようやく一人きりになり、六畳の居間で人心地をついたせつらは、少し熱があるような気がして額に手をあてた。
やや熱い。
バイトの娘もすでに一人休んでいる。
彼女らはよっぽどの事がない限り、まず仕事を休もうとはしない。
せっかくの高い求人の倍率を潜り抜けて『秋せんべい店』のバイトを仕留めたというのに、ちょっとカゼをひいたくらいでこの仕事をふいにしたくないからである。
つまりそれだけ病状が思わしくないという事なのだろう。見舞いの電話を入れた時は、たいしたことありませんと元気に答えてはいたが。
〈魔界都市〉のインフルエンザの情報が〈区外〉に広まったおかげで、〈新宿〉の観光客の量は激減したが、それは秋せんべい店にも当然の事ながら影響した。
明日はどうしようかと茫っと考えながら、人形娘の病院へ行ったほうがいいという忠告も憶い出し、とりあえずもう一日様子をみるかと一人納得をしながら、改装のおり新しく建て増した二階の部屋へ足を運んだのだった。
翌日になりバイトの娘(こ)がもう一人休むことになり、こりゃ明日からしばらく休業かな?、とせつらはかりかりと頭を掻いた。
今日、出勤してくれた娘も身体がだるく関節の節々が痛むのだという。
かくいうせつらも、昨夜は充分に睡眠をとったはずなのに、よく眠れていないような感覚が抜け切れていない。
昼過ぎにもう一人のバイトの娘がやって来て、どうやら罹ってしまったようです、という話を聞いて、こりゃ確実かな、とせつらは宙を仰いだ。
とその時、居間の方から。
トゥルルルル――――――
せつらは居間に戻り受話器を取って、はい、と返事をした。
「達者かね?」
せつらでなければ、ぞくりと身を官能で震わせそうな毒を含んだ艶やかな声がした。
相手が名乗らなくっても、正体など一発で解る。
ぶっきらぼうに、
「大きなお世話だ」
わざと機嫌の悪い腹立ちのこもった声で応じた。
一瞬、電話の向こうが沈黙する。
別にせつらの言い方に気を悪くしたわけでもなく、何やら考え事をしているようである。
「君も罹ったようだ」
せつらの声の調子で、体調を看破したようだ。
せつらは髪を掻きあげながら面白くもなさそうに答えた。
「大したことじゃないさ」
ふむ、と頷くようにメフィストは返事をすると、せつらにとってとんでもない事を言い出した。
「お宅へこれからおじゃましよう」
おもむろにメフィストは言った。
「何?」
顔をしかめて、せつらはいぶかしそうに聞き返す。
相手が何を言ったのか聞き取れなかったからではなく、この医者の言う事を、脳があまり認識したくなかったためである。
だから再度、確認を促したわけだが相手は無情にも言い放った。
「二十分で行けると思うが、待っていてくれたまえ」
「おい、ちょっと待て・・・っ!」
では後で、という言葉を残してメフィストは電話をきった。
残されたせつらは、茫然と受話器を凝視めるだけであった。
白い医師が訪れた時、秋せんべい店はちょっとしたパニックに陥った。
観光客はのきなみ失神状態、普段はせつらのお蔭である程度は人外の美貌に耐性があるバイトの女の子達も、へたへたと床にへたり込んでしまい話す事もおぼつかない。
気配を察知したせつらが、慌てて奥からすっ飛んできたくらいである。
「裏から入れ、おまえは。まったく。もう」
失神した観光客の容態を診ながら、せつらの文句を聴いていたメフィストは銀色の弦を爪弾いたような声で訊ねた。
「具合はどうだね?」
「おまえの顔を見るまでは良かったよ」
せつらの悪態に眉一筋動かす事もなく、冷ややかな態度で、
「君の診察をする。おじゃまする」
そう言うとせつらの許可もなく、さっさと居間へ上がり込んでしまった。
待て、こらちょっと、とせつらが迫力のない調子で言いながら居間に入って行くと、白い医師はすでに炬燵の脇でキチンと正座をして、いつでも診察のできる準備を整えていた。
せつらは茫っと、戸口に突っ立っている。
「何をしている?座りたまえ」
いったいここは誰の家なんだー、と心の中でぼやきながら、それでもせつらはメフィストの指示に従った。
せつらとしても自分の身体の状態は気になる。
ただし嫌々言う事をきいているんだぞ、という態度は露骨に出てはいるが。
メフィストがケープの内側から繊手を出し、せつらの額に手をあてようとした時、せつらが後ろへと身体を避けた。
「何をする?」
と、これはメフィスト。
「ちょっと待て。ここで診るのかい?」
「不都合があるとでも?」
あるどころじゃないよ、とせつらは心の中でごちた。
きっと店の女の子達がこっちの様子をちらちら窺って、仕事もろくに手がつかないにきまっているからだ。
せつらはすっと立ち上がり、店のほうへと足を向けた。
「どこへ行くんだね?」
いささか不思議そうに訊ねる白い医師に、
「ここじゃまずい。二階へ行こう。店の娘にそう言ってくるよ」
黒衣の若者は背中でそう答えたのであった。
二人揃って二階の部屋へ上がり、二部屋あるうちの一つに足を踏み入れた。
部屋の広さは六畳ほどで、まだ新しい畳の匂いが気持ちいい。
洋服箪笥と電話、それに電気スタンドと本が数冊あるきりで、実に簡素な部屋だった。
「ここに入るのは初めてだ」
メフィストが辺りを見廻しながら、そう言った。
そりゃそうだろう、せつらは思う。
ある人捜しを頼まれたおり、いろんな複雑な事件が絡んできて、挙句の果てに巨人達に家を半壊状態にされたことがある。
その時にどうせ直すならと、部屋数を増やす事を思い立ったわけだから、メフィストは当然この部屋に入ったことはない。
「向こうにも一部屋あるようだが?」
「あっちは三畳しかないし、物置にしか使っていない」
せつらは押入れから座布団を出しながら、だるそうにそう答えた。
どうやら体調は順調に悪化しているらしい。
「どうせなら布団を敷きたまえ」
座布団を並べようとしたせつらの手がぴたりと止まる。
何を考えているんだ、と言わんばかりに白い医師のほうを振り向くと、メフィストは取り澄まして続けた。
「その方が治療にも都合がいい」
確かに診察には横になる事もあるだろうが、ただこの医師の場合、本当に治療のためなんだか怪しいものである。
せつらのメフィストを視る眼差しは限りなく疑惑の色に染まっていた。
ただせつらを、からかっているだけかもしれない。
だがここで喧嘩別れをするわけもいかない。
何を考えているか解らない変態だろうがなんだろうが、せつらの主治医である。
しかも腕だけは確かだから、結局のところはメフィストに頼らざるを得ないのだ。
だが長年付き合いから、せつらは別の引っかかりを感じてもいた。
こいつ・・・―――――。

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