混沌とした意識が泥沼のような深淵に沈んでいく時、決して蓋を開けてはならぬ己の欲望に幻惑されて、ただ無力に囚われてしまうしか他に術はない。どんなにもがいても足掻いても助けを求めても、声を上げることさえ出来ないのだから・・・。
―――――――――― ただ暗黒の森を彷徨うのみ。
せつらは喘いでいた。
もう何度、達したか判らない。
それなのに相手の巧みな愛撫で、否応がなしに再び昂ぶらされてしまう。
“私”に変わる事ができたならば、耐えてやり過ごすこともできただろう。
だがどうしたものか、その“私”に変わることもできなかった。
だからといって相手にやめてくれと赦しを請う気にもならず、その手練手管に翻弄されながらも自分自身を見失うまいと必死に耐えた。
とはいえせつらのその相手は、乱暴にせつらを扱ったわけではない。
むしろ、この相手が―――、と思うくらいに信じられないほど、それは優しくせつらを扱ったのである。
それはまるで愛されているようだった。
せつらの肌に触れるその指も、せつらの耳元で囁くその声も、せつらの内部(なか)に入り込もうとするその時ですら、それは情欲に駆られたような淫らさはまるで感じ取れなかったのである。
だからせつらも、“私”に変わる事がなかったのだろうか。
相手を受け入れ、その刺激に再び達しようとした時―――――せつらは二階の寝室に使っている部屋の布団の中で、眼が醒めたのだった。
むっくりと起きて憮然とした面持ちでパジャマの胸元を少し掻き開き、中を覗き込む。
白く透き通るような珠の肌に、粘りつくような汗がびっしりと浮いている。
このところ三日間、毎晩だった。
毎晩、淫夢ともいうべき悪夢に悩まされていたのである。
“欲求不満の中年の主婦でもあるまいし・・・”
せつらは下を向いて、面白くなさそうにかりかりと頭を掻いた。
だが実は、何故こんな夢を視てしまうのか、心当たりはあったのだ。
以前にある事件で、6000万年前に滅びた花の毒を武器に使われた事があって、その事件が一段落した時に、メフィスト病院内にある植物園を案内してもらったことがあった。
流石に〈魔界医師〉が集めているだけあって、学名もついていないような訳の解らぬ植物が山のように生い茂っていたし、メフィストの説明によれば、例え触れることがなくてもかなり危険なものもあるとのことだった。
つまり触れる以外の感覚、視・聴・臭などによって、被験者になんらかの異常をもたらす――――それは主に開花した、妖花ともいうべき植物に多いそうだが――――怖れがあるという。
もちろんそれは特殊なガラス・ケースの中に収められていたし、白い医師の許可の範囲以内であれば近寄っても問題はないとの事だったが、それでもどんな防御機能を施してあったとしても特に危険な植物が隔離されている地帯においては、身体に原因不明の支障が出たりするので、病院内の職員といってもむやみに立ち入ったりしようとはしない。
どんな魔なる植物の進化と退化と弱肉強食が繰り広げられているのか及びもつかない、メフィスト病院の一種の魔境ともいえた。
だから、せつらが初めてこの植物園に足を踏み入れた時には、当然の如くに白い医師の案内が必要となった。
だがおおかたの植物は比較的に安全なものがほとんどだったので、見たこともない珍しい極彩色豊かな花々が、黒衣の若者の眼を大いに愉しませたのだった。
メフィストもそんなふうに珍しく素直な反応をみせるせつらを見て、生来の講釈好きも手伝ってか、いつもの皮肉っぷりはどこへやら、植物園の中を丁寧に案内して廻った。
そして危険な区域を指し示して、自分の案内なしにはこの植物園に入らぬように忠告するのだった。
せつらはもちろん、うん、と頷いて了解した。その時は。
せつらがその禁忌を破ったのは、メフィストがいつもの如くヨーロッパの視察旅行に出かけている間だったのである。
君も一緒に行かないかね?、と電話で訊ねるメフィストに、丁重という態度とは程遠い返事で応えて電話を無造作に切った。
そうしてメフィストが独りで旅行に旅立った頃、せつらの副業に再び奇妙な植物の毒を扱った事件が絡んできた。
どうやら以前にメフィストに植物園を案内して貰った時に、「説明の中に似たような症状を起こす、毒を持った植物があったな・・・」と憶い出したこの若者は、白い医師の帰りを待っていればいいものを、一人ですたすたと無頓着にも植物園に入り込んでしまった。
その植物があった場所は記憶の良さから憶えていたし、およそ怖いものに対する恐怖というものを知らない。
そしてこの若者に限ってはフリーパスで病院内を行き来できるという事が、却って仇になってしまったのである。そして白い医師以外に、誰もこの若者に忠告する者もいないのだ。
目的の植物を捜して見物すると、「あとであいつに毒の成分と解毒方法について訊けばいいや・・・」と、納得して帰ろうと数十メートル行った辺りで、周りの景色がいささか変化しているのに気が付いた。
気が付いたがなるべく周りの景色に意識が囚われないようにそちらを見ないようにして歩いていると、せつらの記憶と感覚に誤りはないが、出口へ向かう道順がどうやら間違っているらしいと勘が告げてくる。
試しに妖糸を放って確かめてみたが、糸からは奇妙な手ごたえしか帰ってはこなかった。
「こりゃ、やられたかな・・・」と、来た道を引き返そうとした時に、それは眼に入った。
黒く透き通った花びらに、紅い血管のような筋が縦横無尽に拡がっている。葉は緑というよりも青に近く、花弁からは蜜のようなものが滴り落ちており、雄蕊の花粉が金粉のように舞っている。
そしてその植物は何かの意図を持って、せつらの方を向いているように感じた。
先程までにはそれ程感じなかった、濃密な甘酸っぱいような香りが空気中に満ちるのを確認した途端、せつらはとっさに息を止めたが、いくらか吸い込んでしまったらしい。
途端に視界は薄紅色に染まり、金色の粒のような光がぐるぐるとせつらの周りを廻り始めた。
朦朧として行く意識の中でそれでもこの若者は強靭な意志の力をもって、妖糸を操りその植物をバラバラにする事によって、妖花の呪縛を断ち切ったのである。
正常な感覚が戻り辺りを見廻すと、やはり違う方角へと迷わされてしまっていた。
そして切り刻んだはずの植物の残骸は、全く見当たらなかった。
それも幻だったのかもしれない。
“全く・・・、この病院は・・・”
と独りごちながらも何か影響を受けているように思われたので、ちょうど病院でもある事だし、身体の検査と神経科の医師に相談をしてみたが、身体にはなんら異常は見られないものの精神的な部分では院長でなければ解らないのだという。
取り敢えず身体には問題はないのだし、本業の煎餅焼きがたまっていることから、せつらは自宅に帰る事にした。
このまま何もなければいいし、もしも何かあれば、無断で植物園に入った事に厭味を言われるだろうが、いずれにせよ白い医師は四日後でなければ帰っては来ない。
何かあってもその時はその時さ、とせつらは呑気にかまえる事にした。
ここら辺は豪胆にできているんだか、どうなんだか・・・。
そしてその夜から、“夢”を視る事になるのだった。
なんだかまだあの、甘い疼きのような痺れる感覚が残っていそうで、せつらは注意して腰を動かした。
禁忌を破った報いにしてはそれ程大した事はないようにも思えるのだが、もちろんせつらの気に入るところではない。
そしてこのことを白い医師に相談しなくてはならないかと思うと、せつらとはいえ憂鬱にならざるを得ない。 “夢”の内容を喋らされるに決まっているからだ。
無断で植物園に入った件で厭味を言われるのはまだいい方で、その“夢”の内容を話さなければならない方が何よりも嫌だった。これだったら毎晩化物に頭から喰われるほうが全然いいや、とぼそりと呟いたのだから、この若者の考えている事は解らない。
だがせつらにとって、もっと気に入らなかった事は、その“夢”の中での『行為』が終わった後で気が付くとその相手がいつのまにか見当たらず、その姿が見えない事になんともいえないような淋しい想いを味わった事だった。
孤独で切なくさせられて・・・、思わず相手の名前を呼ぼうとして、だけどもっともそんなふうに名前を呼ぶことの出来ない、したくない相手なのだと解っていたから、夢の中とはいえ相手の名前を口にする事が出来なかったのだ。
そんな事は初めてだった。
誰かに対して、そんな感情を持ってしまうなどという事は。
ましてや、その相手は―――――・・・・・。
そしてその想いが残ったまま眼が醒めると、やっぱりせつらは独りっきりで、何故、自分がそんな気分にさせられなきゃならないのかと、この若者としては大いに憤慨したのだった。
時計はまだ、朝の四時にもなっていなかった。
だがこのまま寝てしまうと、またあの“夢”を視てしまいそうで、せつらは起きる事にした。
今日はメフィストが帰ってくる。
バイトの娘が来るまで、煎餅をたんまり焼き置きしておこう。
いつも副業にかまけてばかりいて本業がどうしても疎かになってしまい、『秋せんべい店』の目玉商品である、店長が直々に焼いた煎餅も常に品薄状態で、バイトの娘にはどうしても小言を言われがちである。
さぞかし感謝してくれることだろう。
その後、家の掃除などの家事仕事を済ませ、お昼ぐらいにでかけることにしようと考えをまとめると、せつらはのそのそと階下へ降りて行った。
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