02
起きてすぐに電話で予約を入れておいたとはいえ、せつらは全く待たされることもなく受付けの案内を受けた。もっともこの若者に関しては予約なしだって最優先に廻されるのだが、そこのところはせつら自身にも判ってはいるものの、よっぽどの緊急事態でない限り一応の礼儀として連絡は入れるのである。
院長専用の診察室は、柔らかで清潔な白い光で満ち溢れていた。
この院長はたまにインテリアに凝る癖があるらしく、気が向くと病院の内装もガラリと変えてしまう事がある。
せつらが前に視た院長専用診察室はアール・ヌーヴォー調のデザインだったが、今日来て視てみるとどんな仕組みになっているんだか、まるで中国の象牙細工のように机も薬品を入れた棚も壁から直に掘り出してあるように見える。
表面には細かな模様が刻み込まれ、せつらが腰掛けているのは鼈甲でできたような椅子だった。
病院の診察室としてはとても無駄で贅沢で不似合いなデザインのように思えるのだが、実際に見てみると不自然さはまるで感じられず、しっとりと落ち着いた感じの色合いと質感で、むしろ不安な思いを抱えて救いを求めてやってくる患者を、安心させリラックスさせるような効果があるようであった。
以前の内装も歴史を感じさせるような重厚さと、それでいて華美を一切取り去ってしまっているような、相反する印象が不思議なバランスで安定して調和しているようなものだったが、このような内装の作為的な処理も、この院長ならばこれをインテリアと云わずに“実験”と呼ぶ事だろう。
そんなふうに茫と周りを見廻していると、麗音のごとく銀色の輝きさえも感じるような美声が響いてきた。
天使が声を持っているのならば、こんなふうに聞こえるような・・・。
だが内容はかなりそぐわない。
「診たところ身体に異常は視られないようだが、どうしたんだね?」
せつらはメフィストを視た。
この白い医師と実際に会うのは、一週間ぶりのことだった。
今回だってこんな事がなければ、きっと憶い出しもしなかったのだ。
だが嫌でも憶い出させられる事となった。
何故なら―――――――。
「どうしたんだね?」
もう一度問いかけるメフィストの声に、はっと我に返ったせつらは髪を掻きあげながら、面白くもなさそうに答えた。
「へんな夢を視るんだ」
「どんな夢だね?」
それからせつらは答え辛そうに一部を省いた“夢”の内容とこうなった原因、それとどうせメフィストには伝わっているのだろうが、植物園の帰り間際に病院で診察して貰った事を話した。
途中、メフィストが何か余計な事を言わないものかと気にしながら話していたせつらだったが、白い医師はしごく真面目にせつらの話に耳を傾けている。
そしてところどころ頷きながら、カルテに何かを書き込んでいた。
せつらが話し終えるまで、主治医としての態度を終始一貫して崩さないメフィストであった。
そしてそれは、せつらが話し終えた後も変わる事がなく、せつらの方が却って拍子抜けしてしまうくらいだった。
“なんだ・・・、変に心配する必要はなかったな・・・”
そんなふうにせつらが気を緩めていると、出し抜けにせつらの心臓を弾ませる質問を白い医師はしてきた。
「相手は誰だね?君のその、“夢”の中の相手だ」
一瞬、せつらは言葉を呑み込んだ。
相手?
メフィストの黒瞳を凝視める。
茶化しているところなど、微塵も見られない。
あくまでも主治医の立場として訊いているのだ。
この医師と会うのは一週間ぶりだった。
なのにその瞳も、その声も、その仕草でさえ――――――。
「夢だったし・・・。起きたら、誰だか忘れた」
顔色に出ただろうか。
わからない。
だがメフィストはそれ以上は追求しようとはせずに、せつらの嘘の答えに頷くと、続けてカルテに書き込んでいる。
「君からその相手に対して、何かアクションを起こしたかね?どんな些細なことでもかまわないが」
せつらは少し、嫌そうに訊き返した。
「答えなきゃいけないのかい?」
「病を治療したいのであれば、な」
そっぽを向いて答えたメフィストの台詞は、にべもなかった。
憎らしくなる。
だが仕方がなかった。
せつらとしては答えざるを得ない。
できるだけ缶t難易、相手の名前を予防としたが、名前を呼ぶ事ができずに苦しい想いをしたのだと答えた。
メフィストはせつらの返答を聴きながら、じっとカルテを視ている。
せつらはいささか落ち着かないように、そんなメフィストを茫と視ている。
“わかったのかな・・・?”
この沈黙が何ともイヤだ。
“早く、何とか言え。この・・・っ!”
だからせつらはメフィストが口を開いた時、少なからずホッとしたのだった。
「治療をおこなう」
メフィストが席を立ちながら、せつらに告げた。
「何?薬でも呑むのかい?」
つられて、せつらも慌てて腰を浮かす。
もちろん嫌な事はさっさと済ませて、早く家に帰ってしまいたい気持ちの表れであった。
しかし次のメフィストの言葉には、思わず腰がくだけそうになった。
「服を脱いで、治療台の上に横たわりたまえ」
せつらは眼を丸くした。
「全部?」
思わず問い直してしまう。
「全部だ」
何を考えているんだ、こいつは・・・、という態度を露骨に示しつつ、せつらは空しい反発を試みた。
「“夢”の治療だろう?なんだって、服を全部脱がなきゃならない」
「言った事が解らなかったのかね?患者は医師の指示に素直に従いたまえ」
あくまでも冷淡に告げる、ドクター・メフィストであった。
再度、反発を試みようとしたせつらだったが、白い医師の毅然とした態度に、こりゃ抗っても無駄だと眼を伏せて、軽く溜息を吐くと踵を返して治療台の方向へと足を向けた。
そしてさも嫌そうにしぶしぶ数歩歩いていたが、立ち止まると首だけをメフィストの方へ向けながら、不貞腐れたように文句をつけた。
「脱いでいる間、覗くなよ」
治療になればどうせ全部見られてしまうのに、可笑しな事を気にする若者であった。
だがそんな少年っぽい表情と仕草が意外とあどけない感じがして、どこか可愛らしい。
へたをすると外谷良子ですら、相好を崩してしまいそうだ。
だが冷淡な態度を維持しつつ、わかった、とだけ応えたメフィストの態度はりっぱだといえるだろう。
ひとまずその答えを聴いて納得した子供のように、ならいいけどさ・・・、とぶつぶつ呟くと、黒い美影身は治療台の置かれている白いカーテンの向こうへと姿を消していった。
どんな仕掛けによるものか、手を使わずに開いたカーテンの中に白い医師が入って来ると、せつらは備え付けられていたタオルケットを胸元にまで引き上げ、治療台の上に身体を横たえていた。
黒い衣服は無造作に脱衣籠に放り込まれている。
白い医師は枕元に立って、横たわる若者を見下ろした。
少し、せつらの表情が固い。
不安がそうさせるのか、知らず知らずに問いかけてくる。
「治療って、何をするんだい?」
メフィストはそれには答えずゆっくりと身を屈めて、左手をせつらの右側に置き、せつらの身体の脇に腰掛けた。
そして右手の指の外側で、せつらの左側の頬を軽く撫でる。
せつらは鼓動が速くなっていくのを感じた。
「おい」
言葉は少し震えていた。
そしてせつら本人が、そんな自分の声に驚いていた。
そして認めたくなかった。
自分がこの男に怯えているなどと。
だが意に反して言葉のみならず、身体までもが震え出し、せつらは必死でメフィストに悟られまいと押さえ込んだ。
メフィストはそんなせつらを、静かに見下ろすのみ。
その表情からは何の感情も読み取れなかった。
その時間が僅かなものであったにせよ、せつらにとっては初めての屈辱的ともいえる体験であった。
沈黙の中で凝視めあっている事に耐えられなくなったせつらは、メフィストから眼を逸らせて肩で大きく息をした。
大きく息をした。
いつのまにか呼吸まで速くなっている。
心臓は早鐘を打ち、さぞかし自分は情けない顔をしているだろうと考えた。
この医師相手に、なんだってこんな醜態を見せなきゃならないのだろうか?
せつらは軽く目蓋を閉じた。
室内は明るかった。
なにもかも見透かされている気がした。
この現実を遮断してしまいたかった。