03

 事の起こりは二ヶ月前にさかのぼる。
 その夜はひときわ月の光も冷たく冴えわたり、〈新宿〉を新しい住まいとするべく訪れたその人物に、この上なく相応しい晩のようであった。
 歳の頃は二十五歳前後といったところか。
 だがただ外見だけで判断するならばその人物は、昼間の輝きを髪の一筋一筋に留めたような、眩いばかりの金色の髪を持っていたし、空の青さを凝縮させたかのような澄んだ色の瞳をしていたから、夜が相応しい青年には見えなかった。

 だが彼はその姿を、昼日中に晒す事は生涯ないであろう。
 何故ならば彼は夜にしか生きられない運命を背負っていたのだから。
 時折、瞳の中を横切る昏い翳(かげ)が、そう告げている。
 だから彼がこの街に足を踏み入れた時、ここは彼自身にとって最後の生きる場所であると直感できた。
 喩え“呪われた街”と言われるところであろうとも・・・。
 ここでなら、もう一度生きる術を見つける事ができるかもしれない。
 彼は疲れた面差しでそう考えた。
 この青年も何かを失くして、この街へやってきたのだ。
 そのために彼は〈新宿区役所〉に住民票を提出する前に、本当にこの街の住人になることができるのかどうか、それをたしかめるべく〈戸山住宅〉を訪れたのだった。
 面接には夜香と数人の部下との立会いのもとに行われた。
 もっともこの住宅の住人になれるか否かは、当主の判断にかかっている。
 金色の髪をした蒼い瞳の若き吸血鬼は、少したどたどしさの残る日本語でラインハルトと名乗った。
 一目見て夜香は、彼が飢えているのだと看破した。
「ここの住人は人間との共存のもとで暮らしています」
 夜香は穏やかな口調で労わるように言った。
 ラインハルトは夜香を凝視めた。
「自ら働いた糧をもって血液を買い求めたり、善意ある人々の行為によって送られてくる血液によって、日々を生きながらえています。決して人間を襲わぬ事、これは〈区〉との協定ですがそれ以上に、我々がこの街の真の住人になるためには必要な事なのです」
 ラインハルトは静かに夜香の言葉に耳を傾けていた。

「よくがまんしておいでだ」
 ラインハルトは、はっと眼を見張った。
 この夜香という若き当主は彼がここに辿り着くまで、いや、ひょっとしたらこの街に来る以前から食事を摂っていないのではないかと見抜いたのである。
「失礼ですが、先に食事をお済ませになられるといい。今、部下に用意をさせましょう。お話の方は、それからでもいいでしょう」
 そう言うと夜香は、部下の者に頷いて目配せをした。
「ま・・・、待ってください」
 いささか切羽詰ったような金色の髪の吸血鬼の声が、部下の足を止め、夜香を沈黙させた。
「どうか・・・、どうか先に話を聞いて下さい。何故、おれがこの街へ来なくてはならなかったのか・・・。それ以前に何があったのか・・・、どうか話だけでも・・・」
 たどたどしい口調ながらも吐き絞るように喋る青年に、夜香は静かに頷き、ラインハルトは語り始めたのだった。





 彼はそれまでに、ドイツやスイスを中心に三百年を生きながらえ、転々と所在を変えて暮らしていたのだという。
〈食事〉の犠牲者は身寄りのなさそうな浮浪者や、もし変死体となって見つかっても、警察も熱心に犯人捜しをしそうにない暴力団関係・闇社会の人間に限られていた。 それもなるべく月に一人か二人に止め、あとは動物の生き血で耐えていたのだという。
 それは人間を襲う事を善しとしなかったというよりも、あくまでも自己の安全のためである。
 そんな彼が自分でも思いもかけないほど、根底から自身を変えてしまう事に遭遇することになった。
 それはそんな出逢いであった。


 日々寒さの厳しくなってきたある晩、いつものように彼が手頃な“獲物”を求めて歩き廻っていた時のことであった。残念なことにその日は、それに該当するような人間に出会うことはなかった。
 空腹ではあったが危険は冒せない。
 吸血鬼の存在は物語の中のお話として伝説化しつつあったが、吸血鬼に対する迷信以上に根深い恐怖は、今なお人々の心に根源的な恐れとなって巣食っている。
 彼は人間を狩る立場ではあったが、同時に人間から狩り出される宿命でもあった。
 今夜は諦めなくてはならないだろう。
 そしてこの用心深さが彼を生きながらえさせてきた理由でもあった。

 芸術家と称して暮らしていた彼は、山の麓に借りたロッジへと帰る道すがら、暗く細い山道で反対から歩いてくる人影に気がついた。
 思わずこいつを・・・、と一瞬考えたが、相手がコートを着たキチンとした身なりであるのを見て取って、そのまま通り過ぎようと道の端へと身体を寄せた。
 あと数歩で相手とすれ違うという時、それまで雲に隠れていた月が姿を現し煌々と互いの姿を照らし出し、そして―――相手の胸元に十字に輝く小さな証をも露わにしたのである!

 それを見たラインハルトは、絶叫を放ちながら気が狂ったように転げ回った。
 相手は突然の出来事に茫然としていたが、気を取り直したのかそれとも元々冷静な性格であるのか、落ち着いた声で、
「大丈夫ですか?どうしました?」
 心配そうに駆け寄って来た。
 若い声であった。
 だがラインハルトに相手を観察するゆとりはない。
「来るなぁ―――ッ!」
 苦しみながらも怨嗟をも込めた声を振り絞って喚いた。
 そんなラインハルトの様子を戸惑いながらも見つめつつ、どうしたらいいのか考えたようで、
「誰か人を呼んできます。でなければ救急車をまわしてもらいますから、気をしっかりもって下さい。いいですね?」
 温かく励ますようにそう言うと、身をひるがえして立ち去ろうとした。

 そのまま立ち去らせてしまえば良かったのだ。
 おそらくこの人間は本当に誰かに助けを求めて、見ず知らずの青年を救おうとするだろうが、いなくなっているその間に自分が姿を消してしまえば何事もなく済むのだ。何かの間違いだったで済むだろうし、しばらくは自分のことを憶えていても、やがて忘れ去ってしまうだろう。もしどこかで逢ったとしても人違いですむ。
 それなのに、何故引き止めたりなどしたのか?

「やめろ・・・、呼ぶな・・・」
「しかし・・・」
 そして何故、こんなことを?
「おれのことを本当に心配しているのなら、その胸に光っている十字架を・・・・・、遠くへ放って捨てろ・・・!」
 相手が息を呑むのが感じられた。
 まるで今の言葉の一つ一つを、頭に理解させようとするかのように・・・。
「あなたは・・・、自分が人ではないと、そう言うのですか?」
 怯えてはいないようだったが、驚愕を抑えられないような声であった。
「おまえ達・・・、人間は莫迦だ。自分達を餌食にしている相手の区別もつかん・・・・・」
 ラインハルトは吐き出すようにそう言った。
 だが自分で己の心理が理解できなかった。
 正体を明かしてしまうなんて・・・・・!
 これではまるで自殺行為ではないか。
 だがあえて理由を挙げれば、ラインハルトが今迄どの人間に対しても感じた事のない、その人間の持つ不思議な雰囲気のせいであったかもしれない。


 果たしてその人間はしばらく苦しむラインハルトを凝視めていたが、何を考えたのか驚いた事に、自分の首から十字架をそっと外すと十数メートル歩いた先の草むらにそれを置いて、ラインハルトのもとへと戻って来たのである。
「これでどうですか?気分は?」
 そう言うと屈んでラインハルトの顔を覗き込もうとした。
 相手が十字架を置いて来た時点でラインハルトの気分は良くなったが、相手のした行為に今度はラインハルトが愕然とする番であった。
 自分のした事も自殺行為なら、肌から十字架を外した相手の行為もりっぱな自殺行為であった。
 よっぽどのバカか無知としか考えられない。
 だがこの人間の利発そうな、それでいて意志の強そうな穏やかな眼差しがそうではないと告げている。
 歳は二十三〜四くらいだろうか?
 栗色の髪を真ん中で分け、襟元でキチンと切り揃えている。
 品の良い優しい顔立ちは十人が十人とも好感を持ち、心地良い気持ちにさせずにおれないような雰囲気をかもし出している。
 そしてコートの下に着込んでいるそれは、神父の衣服ではないか!

「あれは商売道具でしてね。捨てるわけにはいかないんですよ」
 口元に悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
 そうすると、まだ子供っぽいあどけなさが漂うようである。
「立てますか?あなたが歩けるようでしたら、あなたがいなくなるまで、あの十字架は拾いませんから・・・」
 ラインハルトは信じられなかった。
 この人間は自分の正体を知ってなお、黙って行かせようというのか?
 ラインハルトは倒れたままの姿勢で、下を向いて沈黙していた。