04

「まだ、だめですか?他にどうしたらいいのか、どうぞ言ってください。何かしてあげられることはありませんか?」
 膝をつき、静かに訊いてくる。
 彼の口調は、先程ラインハルトが人間であると信じていた時と、なんら変わりはなかった。
 だが突然、若者の身体は硬直した。
 ラインハルトが腕を摑んだのである。
 そしてその顔が徐々に上がっていった。
 裂けた唇からは乱杭歯が洩れ、眼は赤光を放っている。

「十字架を離すべきではなかったな・・・。おれが正体を知っている奴を、黙って行かせるとでも?」
 ラインハルトは少しずつ身を起こしていった。
 若者の腕からは震えが伝わってくる。
 あきらかに怯えていた。
 それでいて逃れる事ができないのは赤光による呪縛と、ラインハルトが腕を強く押さえているからだ。
 詰襟を引きちぎり、胸元をかき開く。
「顔を上げろ」
 吸血鬼の呪縛に取り憑かれた者は、その者の言うがままの操り人形になる。
 若者は顔を上に向け、その白い咽喉を晒した。
 芳しい獲物の香りが鼻を掠める。この人間の血はさぞかし甘い事だろう。
 咽喉に二本の牙が掛かろうとした時、ラインハルトはふいに訊ねた。
「何故おれの正体を知りながら、十字架を離した?」
 若者は眼を閉じながら、掠れた声で言った。
「あなたは苦しんでらした・・・・・。だから・・・です・・・」
「吸血鬼、なのに?」
 ラインハルトは若者の耳元に囁きかけた。
「たとえ何者であろうとも・・・、救いを求める者を助けるのが・・・ぼくの仕事であり役目なのです」
 言葉の最後の方は力強かった。


 ラインハルトはこんな人間を知らなかった。
 自分が殺される瀬戸際だというのに、何故こうまで誇り高くいられるのか?
 ラインハルトは若者から、そっと手を離した。
 若者は眼を開けた。
 ラインハルトの瞳は蒼さを取り戻し、静かに若者を凝視めている。
 金色の髪が月の光を含み、幻夢のように輝く。
 どこの貴公子かと思わせるようなこの夢のような美青年が、今の悪鬼だったとは信じられないほどだ。
 実際、若者は今しがた起こったばかりの事も忘れたかのように、その姿に見惚れている。

「名は?」
 それが自分に向けた問いだと、理解するのに一瞬途惑ったようだが、その姿からはもう怯えは見受けられなかった。
「ミハエル・・・。ミハエル・ヴェルナー・・・」
 ラインハルトは静かに頷いた。
「おれの名はラインハルトと言う。この道を真っ直ぐに2キロばかり行ったところのロッジを借りて居る。赤い屋根のロッジだ」
 そう言うとラインハルトは立ち上がり、ミハエルをおいて歩み去ろうとした。
 後ろからミハエルの声が追いかけてきた。
「何故、ぼくにそんなことを言うんです?」
 ラインハルトの足が止まった。
「おれにもわからん」
 本心だった。
「しばらくはそこを動かん。他の人間に知らせるなりなんなり、好きにするといい・・・」
 ミハエルはなおも続けて言った。
「何故そんなことを?」
「わからん・・・」
 ラインハルトの声は、風の中を遠く流れていった。
 それからしばらくして驚いた事にミハエルはラインハルトを訪ね、なおも驚いた事に誰に知らせることもなく、たった一人で、しかも十字架を身に付けてもこなかった。
 ラインハルトは唖然と若者を凝視めた。
「来てしまいました。あっ、もちろん誰にも言ってはいませんが・・・、あなたと話がしてみたかったのです」
「おまえはバカだな・・・」
 ラインハルトはぽつりと言った。
 ミハエルは静かに笑った。


 こうして二人の奇妙なつきあいが始まった。

 二人はいろいろな話をした。
 ラインハルトが今迄に生きてきた彼自身の歴史の事、まだ神父見習いであるミハエルの仕事の事、お互いに決して解り合えない存在でありながら、限りなく近しい者同士であるかのように語り合った。
 そしてその間ラインハルトはミハエルに、もう指一本も触れる事はなかった。
 ラインハルトは芸術家というふれこみであったから、何枚も油絵やスケッチを描きためていたが、月の光に照らし出された夜の神秘的な風景が圧倒的に多かった。
 あとは部屋の静物画などだろうか。
 ミハエルはそんなラインハルトの絵を、ものすごく褒めた。
「素人の絵だ。誰に習ったこともない」
「でも、すごく素晴らしいと思う・・・」

 実のところラインハルトはそれらの絵を、結構いい値で画商に卸したりしているわけだが、芸術家特有の偏屈さを装い、一部の好事家には評判が高いものの、自分の名前や姿形・身元を一切公表していなかった。
 そして公表してない事がかえって評判を呼び、熱狂的な彼のFanもいるのだという。
 そんなラインハルトが初めて人物を描いてみようかという気になり、ミハエルに申し出てみたところ、ミハエルは自分が初めてのモデルになるのだと知り照れ臭がりはしたものの、とても光栄だと言った。
 それらの絵は画商に渡そうとはせず、何枚かは自分のために取っておいて、あとはミハエルに与えた。
 ミハエルはことのほか喜んだ。


 ラインハルト同様、二人で過ごすここの空間はまるで時間が止まったかのように、静かに凝結しているのだった。
 だが、いつもがそのように穏やかな時間ばかりでもなかった。
 ラインハルトが血の匂いをさせて帰途についた時など、それに気がついたミハエルの哀しげな顔に、ラインハルトが思わず苛立った感情をぶつけてしまうことがあった。
「あなたがそうしなければ生きていけないことは解っています」
 ミハエルは続けた。
「ぼくが哀しいのは、ぼくがあなたのためにしてあげられる事が、何もないからなんです」
 ラインハルトはその言葉を聴いた時、自分がどれほど孤独な存在であったのか初めて自覚した。
 そしてこの若者だけは手放したくないと、痛切に願った。
 
 もしも・・・、吸血鬼にも祈りを捧げる神が存在するのならば、ラインハルトは血を吐く想いで祈りを捧げたであろう。
 どれほど自分が呪われた身であろうとも・・・。
 それでいながらラインハルトはミハエルを、自分と同じ呪われた存在にすることだけは、決してしてはならないと思うのであった。
 だがラインハルトのそんな願いも空しく、二人の付き合いは三年たらずで終える事となる。 



 理由はミハエルの身体を襲った病魔のためである。
 なんという因業であるのか血液のガンといわれるその白血病という病魔は、若いミハエルの身体を容赦なく蝕んでいくようであった。
 ラインハルトは毎日のように、人々が寝静まった夜にミハエルの病室を見舞ったが、不老不死を誇る自分に何の力もないのだと思い知らされるだけだった。
「ラインハルト・・・」
 弱々しくミハエルが、痩せた腕を差し出した。
「何だ?」
 差し出された腕を、ミハエルの負担にならない程度にしっかりと握りしめながら、ラインハルトは静かに優しく訊ねた。
 最初に出逢った時以来、ラインハルトがミハエルに触れたのは、三年という時間をおいて二度目のことだった。
 病人であるミハエルの腕は熱のせいもあって、ラインハルトよりもはるかに高い体温をしていた。
「そこのテーブルの上に雑誌が・・・」
「何だ?取って欲しいのか?」
 ラインハルトは雑誌を取り上げた。
 発行日を見ると、一年ほど前のものであった。
 雑誌を渡そうとするラインハルトに、力なくミハエルは首を振ってみせ、
「その・・・、しおりが挟んであるページに、君に知らせなくてはならなかったことが・・・・・」
 言葉は弱々しかったが、力を込めた真剣な眼差しだった。
 ラインハルトがそのページをめくると、こんな見出しが飛び込んできた。


『魔界都市〈新宿〉・そこに住む世にも怪異な住人達』