05
「そこに、君と同じ立場の人達が住んでいるという住宅の話が・・・」
ミハエルの声にただならぬ響きを感じて、ラインハルトは顔を上げた。
ミハエルは涙を流していた。
「もっと・・・・・、もっと早く君に知らせなきゃいけなかった・・・・・なのに・・・、なのにぼくは君に話すことができなかった・・・」
ミハエルの眼から涙はとめどなく流れた。
ラインハルトは腰掛けていた椅子から立ち上がり、ミハエルの顔を両手で、そっと挟み込んだ。
「話したら・・・君はきっと、行ってしまうって・・・そう思って」
「ミハエル」
「君がどんなに苦しんでいたか・・・・・、知っていたのに、ぼくのせいで・・・どんなに飢えに苦しんでいたか、知って・・・いたのに・・・・・」
そう、ラインハルトはミハエルとつきあうようになって、以前以上に人間を襲う事をしなくなっていた。
代用に獣の血で済ませていたが、飢えの渇きは常にラインハルトにつきまとっていた。
どうしても我慢できない時には、自分の腕に牙を突き立てたこともあった。
ミハエルは一度、偶然にそれを見てしまったことがある。
そしてラインハルトがそこまで飢えながら、自分を哀しませないために人間を襲う事を、ギリギリまで抑えていることも知っていた。
ミハエルの態度は終始変わらなかった。
「ぼくは、君に話すことができなくて・・・・・、どうしても、できなくて・・・、君に・・・」
ミハエルはしゃくり上げながら話し続けた。
まるで許しを乞うように。
「もう、喋るな・・・」
ラインハルトは両手の指でミハエルの涙を優しく拭ってやった。
そしてそのまま顔を近づけて唇を静かに重ねしばらくそのままでいたが、名残惜しむかのように離すと、ミハエルの瞳を真っ直ぐに凝視めた。
ミハエルはまだしゃくり上げていたが、瞬きを何度も繰り返しながらも、話すことを止めようとはしなかった。
「これは罰だ・・・、君を苦しめ続けた・・・」
「ばかを言え」
ラインハルトは眉を寄せた。
これまで多くの人間を殺してきた。
そして多くの人間が死ぬのを見てきた。
それらはいずれもラインハルトにとって、どうでもいいことであった。
なんの感慨も呼び起こさなかった。
彼等は自分にとってはあくまでも血の糧を得る獲物でしかなく、その獲物達がどのような悲惨な歴史を繰り返そうとも自分には何の関係もないことであり、血を供給してくれる獲物が死に絶えさえしなければ何の問題もなかった。
時に獲物達と共存して暮らしている事もあったが、それはあくまでも自己保身のためのカモフラージュであり、世間が煩わしくなったりあまりにも騒々しくなったりすると、しばらくは長い眠りについてしまえばよいだけの話だった。
そして目醒め、新たな血を求める・・・。
人間の存在など、ただそれだけのことだったのだ。
だがミハエルは、この潔い魂を持った人間だけは―――――。
この若者だけは死なせたくなかった。
何故?
何故、どの神も自分の願いを聞きとどけてはくれないのか?
そして、何故自分はこんなにも無力なのか?
不老不死が何になる?
名ばかりではないか。
「ラインハルト・・・」
「あまり喋るな。身体に障る・・・」
「こんな身体の血でよかったら・・・・・、君に・・・」
「おまえは、やっぱりバカだな・・・」
そう言ったラインハルトは、痩せ細った若者の身体を抱き締めてやることしかできなかった。
その二週間後に、若者は逝った・・・・・・・・
「彼がここへ来るように、言ったのです」
金色の髪の青年は疲れたように言った。
「自分の方こそ、この街についてもっと早くに知っていればよかった・・・そうすれば、彼の病気を治すことのできる医者が、この街に来ればいることも判っていたでしょうに・・・」
やはりこのラインハルトという吸血鬼も、何かを失くしてからこの街へやって来たのだった。
この〈魔界都市〉へ・・・・・――――――。
「ここに、この住宅で暮らしていくうえでの規定が書いてあります」
そう言って、夜香は一枚の書類を差し出した。
ラインハルトは顔を上げた。
「食事を取りながら、ゆっくりとお読み下さい。その内容に御了解を戴けるようなら、下にサインを。〈新宿区役所〉に住民票を届けるのはその後でかまいません」
夜香は穏やかに、疲弊しきった相手を労わるように告げた。
吸血鬼一族の若き当主は、彼を受け入れると言っているのだった。
そして〈新宿〉はその日のうちに、新しい住人を一人迎えることになった。
魂の抜け殻、という云い方がある。
まさにその金色の髪を持った吸血鬼がそうで、独りでぼんやりと佇んでいる時には、声をかけるのも躊躇われる程の深い虚無感を漂わせていた。
だがそれが彼本来の性質ではないことを、夜香はとうに見抜いていた。
もっと鋭利な感覚と、強靭な精神を備えた若者であるはずだ。
それがそのような状態に陥ってしまうほどに―――やはり、そのミハエルという若者を愛していたのだろう。
魂を奪われるくらいに・・・・・・。
しかし時折そのような様子を見せるものの、それ以外では積極的にこの新しい世界の住居に慣れようと、また進んで〈住宅〉の役にたつために行動を起こそうとするなど、その態度はりっぱなほどに感じられた。
夜の巡回には毎夜のように参加したし、心にそうした想いの傷を抱えながらも、何とかこの街で生きていこうとする彼の姿勢は、夜香にはとても好感の持てるものとして思えて、なるべく自分が一緒に行動するように計らい、彼がこの生活に不自由を感じないように対話を心掛けるようにしていた。
もっともこれには新米の住人を、ある程度監視するという行為も含まれてはいたが。
だが個人的には夜香としては、彼を信じるに足る人物だと思っていたし、他の住人達の評判もおおむね良かったのである。
それもとりわけ女性陣に評判がよろしいようで、彼のゲルマン的に整った女性以上に眩暈すら覚える美貌に、女性達の噂はつきない。
そのうえ高貴ささえ感じるその天性の美貌の裏に、きっと一皮剥けば、これまたゲルマン特有の野蛮な獣性も潜めているのよ、と女性達がきゃあきゃあと妄想に耽っているのを小耳にはさんで、夜香もいささか呆れはしたが、なるほどそんなところも彼の一面にあるのかもしれないと思える。
まあレディ達の洞察力はともかくとして〈住宅〉内でトラブルの起きない範囲で、この青年が伴侶を見つける事ができるのならば、それはそれで良い事なのではないかと夜香は思っていた。
ある時、ラインハルトが部屋を片付けている最中に夜香がそこに居合わせて、彼が持って来ていた絵を何枚か見せてもらったことがある。
イギリスにしばらくいただけあって、美術品や絵画には慣れ親しんでいた夜香であったが、そんな彼から見てもラインハルトの才能と技量には感嘆すべきものがあった。
描かれた絵画はどれもこれも当然夜の、それも風景ばかりであったが、なんとも魅惑的であったり風雅であったり、時として挑発的なまでに官能的に描かれたそれらは、同類の夜香からは共感をもって心を引きつけ、異種族の人間からはたまらなくエキセントリックな魅力を持って、見る者を幻惑させずにはおかないものがあるだろう。
ふと、その中の唯一の人物画に夜香は眼をとめる。
限りない憧れと畏怖すら込めて描かれた、清涼な面持ちのその若者。
夜の神秘的な深い闇の中にあってさえ昼間の輝きに満ち溢れた雰囲気と、神より祝福された尊い命の眩しさを、その若者は生まれつき持っていたかのようであった。
彼はラインハルトにとって、ただの人間などではなかったのだ。
絵がそう伝えている。
それは“愛”さえも超えて。