06
「また描いてみるといい」
夜香は油絵のキャンバスからラインハルトに眼を移して、そう言葉にした。
金色の髪をした青年は、茫とした視線を自らの描いた絵の上に落とすだけであった。
それでも二ヶ月あたりから、飢えに悩まされる心配もない安定した住まいに落ち着くことのできた安心感のためか、彼もようやく精神的に安らいだ穏やかな表情を見せるようになり、何やら彼にやたらとかまって世話をしている〈住宅〉内の、これといって決まった相手のいない娘の噂も伝わってきて、このまま落ち着いてくれればと夜香も安心していたその矢先に―――――。
『御世話になりました』
ある日〈区内〉の見回りが終わった後から姿を見せなかった彼の部屋の机の上に、そう記された一通の手紙が残されてあった。
この街から出て行ったのだろうか?
それならば、それでもいい。
去る者は追わず、来る者は拒まず。
それがこの街の規範(のり)だ。
当主に直接の断りもなしに、いきなりそういうことをする青年とも思えなかったが、夜香も彼がそう望んだ事にとやかく言うつもりはなかった。
だがその文章のあとに、続いていた言葉が・・・。
『ここで受けた御恩も忘れて御迷惑をお掛けする事、どうかお許し下さい』
これはいったい、どういうことなのか?
御迷惑をお掛けする、とは?
その手紙を見つけた部下共々、首を捻って考えている最中に警察から連絡が入った。
なんでも〈区外〉から来た観光客の一行の中の女子大生の一人が、昨夜から行方知れずになっているのだという。
行方不明ではなくて行方知れずというわけは、ホテルのその女子大生の泊まっていた部屋に、その娘が書いたと思われる置手紙があったからだ。
内容は、『彼と一緒に行きます。捜さないで下さい』、というものであったらしい。
しかも観光に来た当夜から、どうやらラインハルトとおぼしき青年に会っていたらしい、と一緒に旅行に来ていた友人の女子大生が証言している。
―――――つまり、これは・・・駆け落ち???
調べてみると〈住宅〉内でも、ラインハルトが観光客らしい娘と会っているところを見かけた者がいるようだった。
つまりそういった理由でその日から、夜香一派は総出で警察も併せて、彼ら二人を捜すことになったのである。
だがここまでなら、さして大事ではない。
〈区長〉に多少の責任が問われることはあっても、あくまでも〈戸山住宅〉と娘の家族との間の問題であったからだ。
それとせいぜい〈新宿観光協会〉との話し合いと責任の有無か賠償問題か、いずれにしても個々との問題解決であった。
ところが娘の両親は、これは“駆け落ち”ではなくて“誘拐”であると強く主張し、〈区長〉に直談判で真相究明と事件解決を強引に迫った。
それをどこでどう聞き付けたものか、〈魔界都市〉ネタならとにかく何でも視聴率アップに繋がるとふんだ〈区外〉のワイド・ショーの番組が、警察が待ったをかける前に大々的に放映したから、事は公になってしまった。
いったい〈魔界都市〉の道徳倫理観はどうなっているのだとリポーターがまくしたて、どこかの国立大学のお偉い教授のコメントでは、そもそも〈魔界都市〉の住人達にそんな〈区外〉においては常識的な良識だのモラルだのがあるわけがないし、大体そんな化け物だらけの街へ物見遊山で行く事が最初っから間違っているのだと、実に当たり前ともいえる解説をかまされ、しまいには番組に出ていたゲスト全員、〈魔界都市〉が日本に存在すること自体が国辱ものであると結論づけたため、その番組を見ていた〈区外〉の視聴者から、「全くその通りだ」という同意の電話が殺到したのだという。
このテレビ放映は、当然〈魔界都市〉でも見ることが出来た。
ただし〈区外〉での電波は〈魔界都市〉の魔気だの妖気だので遮られてしまうので、わざわざ映像を〈区外〉でコピーしてきて〈区内〉のテレビ局が流すのである。
それはともかくとして―――。
さあこの攻撃に、断固として負けていられないのが〈魔界都市〉側である。
〈区内〉のワイド・ショーでもこのニュースをあらゆる番組予定をカットして大々的に取り上げ、二人は狭量な常識でしか計れぬ〈区外〉の人間の犠牲者だと説き、この二人は現代の『ロミオとジュリエット』なのだと報じた。
吸血鬼と人間。
どうしても相容れぬ許されぬ種族同士なれど、若き二人は愛し合っているのだ――――――。
この表現は〈魔界都市〉の住人にすらロマティックな心情をかきたてずにはいられないのか、〈区内〉の住人の間で二人を応援しようという、実に〈魔界都市〉らしからぬ奇妙な運動が盛り上がり始めている。
これに対して〈区外〉では娘の両親を筆頭に、これはあくまでも犯罪であり、女子大生の女の子は何らかの事件に巻き込まれたか、強制拉致をされたのだとの見解を強めている。
また、娘の両親が泣きながら安否を気遣うシーンが放映されたのも、より一層の〈区外〉の視聴者の同情を煽り、過剰気味の論争にさらに拍車をかけていた。
特にネットの世界でその手の話題のために立ち上げたホームページやブログは、あっというまに万を超え、昼夜を問わずこの話題で掲示板は荒れに荒れた。
しまいには魔導師を使い自分のホームページの掲示板に呪いをかけ、自分の意見と違う書き込みをした者は正体不明の呼吸困難に陥るなどという事件まで起きてしまうと、〈区長〉から〈区民〉にインターネット強制自粛命令が出された程である。
せつらが夜香に「大変だね」と言った背景には、そういった込み入った様々な事柄が含まれていたのである。
また連日のように、新聞やテレビ・インターネット等を賑わしているそれらの莫迦騒ぎにも一通り眼を通しているとみえて、夜香が自分のもとを訪れたわけも、当然承知しているのであった。
―――――つまり二人は、まだ見つかっていない?
「テレビ映りは良かったけどね」
湯呑み茶碗を傾けながら、せつらは夜香を面白そうに見つめた。
「は・・・、いやあれは、その・・・」
せつらにそう言われてやや頬を赤らめながら、〈戸山住宅〉の当主らしからぬ態度にしどろもどろの口調で、夜香は本当に恐縮しきっていた。
実は昨夜、何とかこの騒ぎに終止符を打つべく、夜香はテレビに生出演をしたのである。
せつらは、そのことを言っているのだった。
夜香はそこで、自分達にはこの街で生きていくための自分達なりの規範があり、その規範を侵した者には自分達なりの制裁を加える用意があるが、まず彼等が何故そのような行動をとったのか話し合いたいのだと主張した。
そして娘さんの将来のためにも、どうか姿を現して欲しいのだと、テレビ画面からラインハルトに訴えかけたのだった。
もっともこれにはよけいなオマケがついてきて、この鋭利な美貌を持った洋行帰りの若き当主に質問をしていた女性のアナウンサーがのぼせ上がってしまい、後半は夜香自身に質問が集中してしまったという経緯がある。
それでなくても吸血鬼には美形が多い。
それと同時に彼ら独特の神秘的な雰囲気と相まって、それこそ自ら進んで罠に掛かる獲物のごとく、吸血鬼当人が望む望まないに関わらず、その魔力の虜になってしまう人間が多かった。
普通の人間を襲う事に禁忌を強いている夜香一族にとって、今となっては己たちにとってもいささか迷惑ともいえる能力であった。
しかも夜香当人にとしては切羽詰った事情もあり、生来生真面目な性格のこの若き当主をかなり困惑させたようで、その様子もテレビの画面にはしっかりと映っていたらしい。
だがそんな困った様子にもたまらない魅力を感じた視聴者が大勢いたらしく、本番中もこの当主に対する問い合わせの電話がテレビ局にバンバンかかってきたというから、念がいっている。
あの方には、どこに行けば会えるんですか?
プロフィールを教えて下さい。
どんな女性が好みですか?
私、一度吸血鬼になってみたかったんです。
どうしたら〈戸山住宅〉の住人になれますか?
などなど・・・。
何とかこの騒ぎを少しでも治めようとする夜香の努力は、別の新たな話題を提供する形となってしまった。
せつらはその一部始終もテレビで見ていたらしく、そこらへんも含めてやんわりとからかってみたのだが、夜香の性格からいって、からかい過ぎるのも考えものなために、この程度で止めておいたのだった。
それに実情はかなり切迫しているのだ。