03

「実はそうなんです。我々夜の一族は、日中太陽の下で活動する人間よりも、月の影響を強く受けます。今夜に限っていえば、人間の皆さんも大変なようですが・・・」」
 なるほどあの莫迦げた大騒ぎは、宙を飛んでいる連中からは、よく見えるわな。
 夜香の言葉は続く。
「なかなか部下達も、おれの言う事さえ聞こうとしません」
 せつらの背をひやりとしたものが撫でた。
「まさか、人間の血を吸ったり・・・」
 夜香は慌てて手を横に振った。
「血液の貯蔵タンクをがぶ飲みするものが続出しまして、たらふく飲んだ後は人間でいうと酔っ払ったような状態とでもいうのでしょうか、そこら中を飛び回ったかと思うと、いきなり墜落して眠りこけてしまうんです。なんとか残ったまともな連中で、住民の回収にあたっています」
 まさに人間でいうと、ぐでんぐでんに酔っ払った呑ん兵衛の状態である。
 人間の血液を詰めた酒瓶をラッパ飲みする吸血鬼の軍団をせつらは思い浮かべたが、あまり愉快な光景とはいえなかった。
 すぐにその空想を打ち切る。


 夜香は、お恥ずかしいことです、と赤くなって頭を掻いている。
 だがそうやって誰かに話してしまう事で、一族の重い責任を抱えたこの当主の気分も少しは楽なものになっているのかもしれない。
 そしてこの黒衣の若者にだけは、そんな事も話せるのかと夜香は思うのであった。
 せつらの方は夜香のそういう態度や心理状態について、どの程度理解しているものかは知れたものではない。
「前にさ・・・」
 どうやらあんまり何も考えていないような、せつらの茫とした声である。 
 ピッと、真っ白くて透き通るかのような人差し指を一本立てて、
「今夜と同じ事って、以前にもなかった?」
 自分の知りたいことにのみ忠実な、秋せつらであった。
 だがそんなことには気にも留めず、何とかせつらの問いに応えようとする夜香の姿は健気過ぎるほどだ。
 生来、生真面目な吸血鬼は頭を捻って考えた。
「そういえば・・・、確か前にも一度。ですが、今夜ほど非道い有様では・・・・・」
「でも、あった」
「はい、そうですね。ありました」
 夜香は確信を持って、しっかりと答えた。
 それを聴いたせつらは、ふうむと考え込んだ。



 以前と同じような状況だというのなら、あいつが病院にいようといまいと、やっぱり一枚噛んでいるんじゃないのだろうか・・・、どうもせつらにはそんな気がしてならないのだ。
 しかしそれは実は、人形娘のもとを訪れる以前から感じてはいた事で、それだったら最初からこんなに回りくどく遠廻りなどしないで、メフィスト病院へ直行して確かめればよさそうなものだが、どうもそれも気が進まない。
 だからわざわざこうやって証拠固めみたいなことをして行かずにすめばいいと思っているわけで、その反面、何故か行きたいような気持ちもあるのだが何やらヤバイ感じもする。
 カンはそう囁き続けるのだが、どうやら次の行き先がそこに決まりそうで、せつらは心の裡(うち)で本当にうんざりした。
 その時何やらただならぬ気配を察知して、せつらは貌を上げた。
 夜香がじっと、せつらを視ている。


 思わず、どうしたんだい?、と声をかけようとしたせつらだったが、言葉は咽喉で止まった。
 なんだかこいつ、やばくないか?
 夜香の頭上には銀盆の巨大な月。
 それが、めいいっぱいに気に入らないぞ。
「せつらさん・・・・・」
 おいおいどうした、声まで艶っぽくなっちゃって。
 夜香の表情は陰になっていてよく判らないが、眼が潤んでいるような気がする。
 眼?
 しまったっ!、と思って自分の眼を閉じようとしたせつらだったが、一瞬遅かった。
 血の色にも似た真っ赤な二つの光点を視たと知覚した途端、身体は金縛り状態だ。
 以前、〈新宿〉にやってきた吸血鬼達との戦いで、吸血鬼の眼の魔力について十二分に学習したはずだったが、今夜のせつらはいささか油断している。
 昨日までの友は、今日の敵。
 ましてや今しがたまで親しく話していた相手から、いきなりズドンとやられるなど、日常茶飯事の〈新宿〉である。
 だが相手は夜香であり、殺気も感じなかった。
 足音もたてずに、すうーっと滑るようにせつらに歩み寄って来た。


 ところで吸血鬼がどういった場合に眼を紅くさせるのか・・・、というパターンにはいろいろとあって、戦う前の闘志によるものであるとか、〈食事〉の際に獲物をおとなしくさせるものであるのか、あるいは欲情によって興奮したためであるとか―――欲情―――?確かに、今の夜香はその状態に近い。
 せつらは表通りのどんちゃん騒ぎを憶い出した。
 月の魔力は今一つ別の心の底に潜ませていた欲望を、さらけ出してしまいはしなかったか。
“おーい、こらっ!僕に欲情してどーする”
 夜香の本当の自分に対する気持ちなど、てーんで判っていない黒衣の若者は叫んだが、もちろん声など出せやしない。
 指一本でも動かせれば妖糸で夜香を止めることもできるのだろうが、それどころか瞬きをすることもできずに夜香の動きを見守るだけだ。
 夜香の両手がせつらの両肩にかかる。
 やばい、本当にやばい。
 今、こいつに首筋に来られでもしたら―――――。
 吸血鬼の中には欲情すると相手の血を吸いたくなる者がいるというが、こいつはそっちのタイプかもしれない。
 だがその首筋に牙をかけるまでの一瞬が、せつらと夜香の運命の別れ目だろう。
 すなわち吸血鬼の眼の呪縛から解き放たれるからだ。
 せつらは心の裡(うち)で身構えた。すぐに妖糸を振るえるように。
 夜香がせつらを引き寄せる。
 夜香の貌がせつらの咽喉に目掛けて落ちる。
 今だ!
 しかしせつらの妖糸が、宙を飛ぶことはなかった。
 声を聴いたからである。



「せつらさん・・・・・」
 何とも言えずに切なくて、情けなくなるような声である。
 とても部下には聞かせられない。
 せつらの肩に顔を埋めたまま、抱きついて離れようとはしない。
「おい」
 声も身体も自由になったせつらは、片手を上げて夜香の肩を叩いてみたが何の反応もみられなかったので、今度は力を込めてもぎ離そうと試みたものの、何せ吸血鬼の莫迦力で抱き込まれているわけだからびくともしない。    

「おいっ、たら!」
 ちょっと怒鳴ってみたら、いやいやと夜香は顔を埋めたまま、頭を横に振った。
「せつらさんは、おれが・・・嫌いですか?」
 “泣いてんの?こいつ”
 とせつらが思ったほど、哀れで掠れた声だった。
「いや・・・」
 これは、せつら。
 とりあえず他の言葉が見つからなかったのだろうが、なんとも間が抜けている。
 何が、いやなんだか・・・。
 しかも夜香の言った告白など、大して頭の中で咀嚼せずに答えたに違いない。
 実に哀れな男、夜香であった。

 夜香の腕に力がこもった。
「御願いですから、おれを嫌わないでください」
 そう喚いて、せつらを抱き締め続ける。
 これではすっかり酔っ払いと同じである。
 わかったからわかったから、と言いながら夜香の背を軽く叩くせつらの声に、ほんとですねほんとですね、という夜香の声が輪唱する。
 ああ、厄介な・・・、と思いつつも吸血鬼と月との関係について、ひとつ利口になった秋せつらであった。


 だがいつまでもそんなことをして遊んでいるわけにもいかず、吸血鬼に効くかどうかは判らなかったがいくつかのツボを妖糸で押さえてみたところ、夜香は突然顔を上げた。
 何とか正気に戻ったようである。
 まるで目醒めたばかりのように眼を瞬かせて、「何かあったんですか?」、と訊いてくる。
 今までの記憶はないらしい。
 なるほど、これも酔っ払いと同じだ。
 いささか疲れたせつらは軽く溜息を吐いて、手をひらひらと振りながら、「なんでもないよ」と応えた。
 次はもっと疲れる相手に逢いにいかなくちゃならない。
 まだ事態をよく把握していない夜香へ、「お大事にね」と一言残して、その場を立ち去った。




 裏通りから表通りをそっと覗くとそこは、アテネの祭礼どころか、相も変わらずバッカスの狂宴の真っ最中だった。
 街頭のスピーカーからは警察官が、ただちに家に帰るようにと怒鳴りたて、これまた街頭に設置された巨大TVパネルでは、〈区長〉が今夜は家から出ないようにと戒厳令を呼びかけている。
 頭の上には、勝ち誇ったように光り輝く夜の銀の女王。
 せつらはしばらく、ぼんやりと佇んでしまった。
 雨に濡れるのは嫌かもしれない。
 落ち葉や桜吹雪を鬱陶しいと思う者もいるだろう。
 だが降り注ぐ月の光を払い除けたくなる者は、そういない。
 しかし今のせつらは、たまらなくそうしたい衝動に駆られていた。
 無駄なことと判っていても・・・。
“この莫迦騒ぎを止めさせてやる”
 月光を払い除ける代わりに足早に、〈区役所通り〉の方角へと歩み出す。
 ところでかくいうせつらも、もう二時間近く月の光を浴びていたことに関しては、すっかりと失念していたのであった・・・・・・。




 どんなつてだか賄賂だか脅しの手を使ったかは解らないが、いつのまにやら公共の施設にでんと居座って医院を開業したその医師は、訪れ救いを求める者すべてに治療を施す。
 いつからこの〈新宿〉に居るのか、何故この〈新宿〉に居るのか、またこの医師は何者なのか―――誰も知らなかった。
 せつらも知らなかった。
 また、知りたいとも思わなかっただろう。今までは。
 だが今夜は無性にそんな事が気になった。
 あいつは何故、ここにいる?