04
メフィスト病院の大理石の玄関をくぐり抜け、横目でロビーの様子を眺めながら、受付けへと向かう。
ロビーの長椅子辺りで待っている患者はともかく、医師や看護婦もすべてが秩序正しくて、街の莫迦騒ぎの影響はまるで見られなかった。
たとえ世界がどうであろうともここ院長は、自分のスタイルに合わぬもの、またはそれを崩そうとするものは決して許さぬ事であろう。
美意識に反するからである。
あの白い医師がナルシストだなんてせつらは思ったこともないが、病院という生と死のせめぎ合うもっとも生々しい現実を持った場所でさえ、ここはまるであの院長自身のように厳かで崇高な寺院のような雰囲気を備えていた。
恐らくどんな苦痛に満ちた病状の患者でさえ、この病院内に一歩足を踏み入れるだけで安らいだ気持ちにさせる事ができるに違いない。
きっと、世界が終わる日までこうなのだろう。
せつらは受付けに座っていた薄いピンクの制服に身を包んだ娘に、院長先生に会いたいのだと用件を伝えた。
娘は何度もせつらの顔を見ているはずなのに、頬を真っ赤に染めながら上ずった声で、「しばらくお待ち下さい」と答えた。
せつらに関しては病院にいる関係者の誰もが、決して見慣れることのない、院長に勝るとも劣らない美貌の持ち主であるというのは満場一致した意見である。
せつらは暫く待たされた。
受付けの娘は、「お待たせ致しました」と侘び、「院長は今、手術に立ち会っておられます」と告げた。
せつらは最初に電話をかけた時の事を憶い出しながら、「まだ時間がかかっているのかい?」と訊ねると、娘は最初にせつらが電話で問い合わせてきた事を憶えていたらしく、「いえ、別件の手術になります」と答えた。
せつらは、ふうむと小首を傾げた。
その際、近くにいてせつらに見惚れていた女性が二人ばかり倒れたのだが、それは置いておいて、あの院長の手を煩わせる患者が今夜は多いという事なのだろうが・・・―――、あいつは本当にこの騒ぎに無関係なのか?
考え事をしているせつらに、「院長室でお待ち下さるようにということです」と娘が言うので、ありがとうと礼を述べて、せつらはエレベーターへと向かった。
降りる階のボタンなぞ押さなくても、エレベーターはこの若者を必要な場所へと案内する。
エレベーターの中でせつらは、メフィストとの会話を想像してみた。
“おまえ、外の騒ぎに何か関係していないか?”
“どうして、そう思うんだね?”
“この間も確か似たようなことがあって、あれもおまえが関係していたよな?”
“いいがかりだな”
だめだ、不毛だ。
あいつが素直に口を割るわけがない。
それに・・・、
“君の仕事の依頼とも、関係あるまい”
そうなのだ。
全く、仕事ですらないのだ。
それなのに何故、家から出て来ようなんて気になったのだろう。
せつらがそんなことを試行錯誤している間に、エレベーターは勝手に止まってくれた。
扉が開くと、通路を隔てて院長室の扉が見える。
通路の両端は、その果てがまるで見えなかった。
きっと何処とも知れぬ、夢幻の彼方へと続いているに違いない。
もちろんそんな感慨などまるで持たないこの若者は、かまわずに通路をさっさと横切り、ロマネスク風の黄金の扉の前に立った。
いつもならここで、訪れたことを告げるためにチャイムを押す。
せつらは右手の人差し指をチャイムのボタンへと伸ばした。
しかしせつらがそれに触れることもなく、黄金の扉は静かに開いていった。
ためらうことなく一歩、踏み入れる。
いつも通りに見慣れた光景だ。この雰囲気も。
両脇にはマーブル模様の大理石の円柱。
天上と壁は白い大理石で、床には一面に唐草模様の絵柄の入った濃緑色の絹の絨毯。
孔雀石の暖炉に黄金の燭台。
グリーンのベルベットのソファの前には黄金のテーブル。
そして部屋の一番奥には、巨大な黒檀のデスクがあった。
電灯などの照明はこの部屋には見当たらない。
無粋過ぎるからだ。
あの院長には似つかわしくないだろう。
たまに多少、インテリアの内容が変わることもあるが、基本的な調度品の種類はそれほど変わるものではなかった。
シンプルで無駄がなく、それでいて豪華で重厚だ。
もっとも招き入れたい客がいなければこの院長は、ソファも置く必要がないと思うだろうが、その常に招き入れたいと願っている客はとことことソファの側まで行き、当然のように腰掛けた。
いつものように。
それから膝の上に両膝を立てて両手を組み合わせると、その上に顎をのせた。
眼だけを動かして、部屋の様子をぼんやり眺める。
茫と眺めつつ、これからあの院長と漫才めいた会話を始めなきゃならないかと思うと、せつらの心はいささか重かった。
走馬灯のように、メフィストと共に関わり合いになった、過去の事件の出来事が頭の中に去来する。
憂鬱な気分になりかけたので、即時に回想する事を停止した。
あんな何を考えているのか解らない奴と、よくもこれまでつきあってこれたものだ。
えらい。えらい。
我ながら感心する黒衣の若者であった。
そんな考えを頭の中に巡らせていたせつらだったが、この部屋において唯一つの異変を感じて身体は硬直した。
それは最初からこの部屋にあったのだ。しかし部屋に入ってすぐにそのことに気がつかなかったのは、自分の考えに没頭していたからである。
それとそれはあまりにも当たり前で自然な現象であったし、よく考えてみればこの上なく不自然なものでもあった。
しかしこの病院の部屋ならばたとえ地下であったとしても、この部屋の主があの白い院長である限り、それはなんの不思議もないことなのかもしれない。
だが今のせつらにとって、それはなるべく避けたいことだったのだ。
理由は自分でもよくは解らないが・・・。
この院長室に満ち溢れているこれは―――・・・、月の光ではないか!
せつらは突然、無力感にも近いような脱力感に襲われるのを感じた。
姿勢を崩して、片手をソファにつく。
物憂いような、この気だるさ。疲れではない。
がくりと頭を垂れて、瞼を閉じる。
まるで苦悶に耐えるかのように眉宇をやや寄せ、薄く紅玉のような唇を開く。
思わず洩らしてしまったかのような声が、唇の間の隙間から零れ落ちる。
甘美な、喘ぎにも似た声だった。
何か猛烈にたまらない衝動が、この若者の身体を襲っているのだった。
ソファについた方の逆の手で、自分の身体を抱き締める。
その時、せつらの肩にそっと誰かの手が掛かった。
憶えがある―――、この手は―――――・・・。
「大丈夫かね?」
陶器のようにすべらかで柔らかく、ひんやりとしながらも心地良くて不快さがない。
これは神の手か、それとも悪●の・・・・・・。
「せつら」
ドクター・メフィストであった。
でなければ誰が秋せつらのことを、そんなふうに呼ぶ者がいるだろう。
まるで愛しい者を呼ぶように。
「せつら?」
メフィストが、もう一度名前を呼ぶ。
せつらと呼ばれた若者は、ゆっくりと瞼を開けた。
下を向いていた貌を徐々に上げて、白い医師の方を振り向く。
だがそれは一体、どちらのせつらであったのだろうか?
白い医師の麗貌には、僅かに驚きの波が拡がった。
「座ればいい・・・」
これはこの若者の声だ。
だが、どちらの?
あまりにも妖しく、あまりにも艶やかで・・・。
メフィストは若者の言うままに、ソファの横に腰を降ろした。
目線を若者に固定したまま、まるで話すことが出来なくなってしまったかのように。
ベルベットのソファは軋む音もたてずに、白い医師を迎え入れた。
若者が白い医師の側へとにじり寄る。
「メフィスト・・・」
それは誰の名前だったろう。
若者がふいに妖艶な視線を落とし、白い医師の肩から垂れ下がっている豊かな長い黒髪を、ふさりと一房、手に取った。
氷の輝きを持った、黒曜石の髪だった。
生身の人間の持つものではない。
そしてそれを手に取っている若者の繊手も、とうてい生身の人間のものとは思えないものだった。
「長い髪だな・・・」
手の中でそれを弄びながら、そう呟く。
ぞくぞくするような声音だった。
白い医師は身じろぎもせずに、若者の動きをじっと見守っている。
それとも本当に動くこともできなくなってしまったのだろうか。
その若者の凄まじくも怖ろしいまでの、破滅をもたらす魔王の美貌に・・・・・―――――。
きっとこの美貌の前には、天使ですらもひれ伏すだろう。