ぽかっ、と眼を醒ましたその若者は、身体を動かさないで瞳だけを動かして部屋の様子を眺めた。
 どうやらカーテンが引いてあるらしくあたりは薄暗いが、この部屋は充分すぎるほど見憶えがあった。

 メフィスト病院の八階、特別室。
 黄金と大理石と水晶と絹で出来た部屋、あらゆる美術品と豪華な調度で埋め尽くされた部屋、それでいて安っぽいけばけばしさや俗世的な感覚とはまるっきり切り離された部屋、通常の人間ならば足を踏み入れることさえ躊躇ってしまう事だろう。
 自分には、とうてい相応しくないと・・・―――――。
 この部屋は訪れる者を選ぶのかもしれない。
 部屋全体に意識があって己に相応しくない者を拒んでしまうような、この部屋の創り主にどこか似ている・・・そんな部屋であった。



 そしてその創り主がこの部屋の主人に相応しいと選んだ只一人の若者は、もそもそと上半身をだるそうに起こした。
 そんな様にならない動作なのに、薄暗い室内に光が煌めきこぼれるようだ。
 それも当然といえるのかもしれない。
 この部屋の主人たるほどの人物ならば。
 秋せつら―――――ドクター・メフィストがこの部屋の主人であると言い切った只一人の存在、美しき魔人なのだから。
 もっとも当人がこの部屋の事を、どの程度認識しているものかしれたものではない。
 現に年に一度の健康診断にしか使われなかったのだから・・・。
 ベッドにだって腰掛けた事ぐらいしかない。今迄は。
 それなのにそのベッドで正体不明にぐっすりと眠り込んで、どうやら一泊してしまった訳は?


 起き上がる時に何やら、“あーあ。これで噂も本当か・・・”と溜息混じりに呟いたらしいのと、どうやら一糸纏わぬふうからも見て取れる、昨夜のせつらの所業であった。
 しばらく頭を抱え込んでいたが、もう一度軽く溜息を洩らして改めてぐるりと部屋を見渡す。
 別段、部屋の美しさと迫力に気を取られた訳ではない。
 そんなものなどどうでもいい事なのかもしれない、この若者にとっては。
 特に今はそれどころではないのかもしれなかった。
 昨夜の相手がこの部屋にいない事など目醒めた時からとうに解っていたが、ただの気休めのためだけに行った動作だった。

 わざわざ見て確かめなくても解る、あの白い医師ならば。
 あの―――――鋭く研ぎ澄まされたような、真夏を凍てついた真冬に変えてしまうようなドクター・メフィストの『気』である。
 この部屋にその片鱗とて存在しない事など先刻承知している。
 ただ・・・部屋に起ち込めているこれ、この甘く芳しい香りはメフィストのそれであった。
 せつらがメフィストの側に近づくと、何度も嗅いだ香りである。
 さして今迄は気にもとめていなかったが、こんな香りは他では嗅いだ事のない香りだな・・・、とせつらはぼんやりと考えながら髪を掻き揚げた。
 ふと自分の手首からその匂いがきつく香っている事に気がつき、眉宇を寄せて手首を見つめる。



 記憶が蘇えってきた。
 メフィストに摑まれた手首である。
 手の平からも香りは香っている。
 メフィストに口吻けされた場所だ。何度も。
 部屋に香りが起ち込めているわけではなかった。
 せつらの身体から香っているのだ。
 昨夜―――メフィストに触れられた箇所から、メフィストに口吻けを受けた箇所から―――その香りは起ち込めているのだった。
 やっと果たせた想いをいつまでも留めておきたいかのように・・・・・。

“洗って落ちるものかな、これ”
 別に嫌な気はしなかったが、昨夜は血みどろな壮絶ともいえる姿で、炎の中に佇んでいたはずだ。
 それからメフィストにここに連れて来られて―――口吻けされて意識を失わされたという、曰くつきだが―――、治療と食事の至れり尽くせりのもてなしを受けた。
 時として必要以上に、せつらに冷たく接する事もある―――想いが遂げられないという嫌がらせもあるのだろうが―――白い医師としては、その甲斐甲斐しさと機嫌の好さはいくら惚れた者の弱みとはいえ、とても口吻け一つだけの行動とは思えないものだった。
 対するせつらの方も闘いで身も心も疲れ果てていたし、悪態を吐く元気も粋がって見栄を張る気力も起きなかったので、メフィストに全部任せてしまうことにした。
 そんなせつらの姿をどう受け留めたものか、メフィストは再び意志を込めてせつらに触れてきた。




“それでそーゆー事になっちゃって、シャワーも浴びないで寝ちゃったわけだ・・・”
 妙な事を気にしている。
“だけど、この部屋にフロなんてあったかな?”
 部屋の主人としては、はなはだ頼りない自覚振りであった。
 視線を左手の方へと移すと、出入り口とは別の黄金の扉が見える。
“あれだったら、いいな・・・”
 意味不明の願いを心の中で唱えながら、ふと今は何時なのだろうかという、きわめて現実的な疑問が頭をもたげて来た。
“時計ねえ・・・”
 およそこの部屋では見たことがない。
 こんな現実離れした部屋にはもっとも似つかわしくないものであろうし、第一、部屋自体がそんなものを置くのを嫌がりそうだ。
 せつらのズボンのポケットには腕時計が、コートには携帯電話が入っていたはずだが、それだっていったい何処にあるんだか・・・。
 衣服は昨夜、メフィストに触れられて千々に破れ散ってしまった筈だ。
 さすがに後で弁償をしろよと文句を言うせつらに、メフィストは艶然と微笑みかけて、わかったとは答えてくれたが・・・・・。
 時計や携帯電話の行方など、それこそ神のみぞ知るである。


 体内時計では、まだ午前中であると告げている。
“電話で聞くのもマヌケだよな・・・”
 しかも、いったい誰に?
 本来ならば簡単に訊ねる相手がここにいない不便さにわずかな苛立ちを覚えながらも、それでもベッドサイド・テーブルに眼をやると―――そこにあった黄金の電話は姿を消し、代わりにマーブル模様の大理石と黄金で出来ているらしい置時計が鎮座していた。
 せつらは、きょとんと置時計を眺めた。
 さっきまでは確かに電話があった筈だが・・・、だが深く考えるだけ無駄というものかもしれない。
 ここはメフィスト病院なのだ。
 だから視線をいったん別の方向に移し、もう一度ベッドサイド・テーブルに移した時、そこにあった置時計が電話に戻っていてもせつらはもう驚かなかった。
 なんといってもここはメフィスト病院なのだから・・・・・。
 この理由ですべてカタがつく。

 
 
 無駄な事は考えるのはやめにして、せつらは最初の目的に行動を移す事にした。
 フロに入る事である。
 せつらの身体からメフィストの芳香の香りはするものの、何の汚れも認められなかった。
 あんなに血と泥で汚れていたのに。
 だがそれは昨晩、一度眼を醒ました時には跡形もなく綺麗になっていたのである。
 もとから汚れてなどいなかったかのように、ボロボロだった衣服も嘘のように元に戻っていた。
 あれほど壮絶な闘いがあった事さえ、悪夢でしかなかったように思える。
 みんな夢だったんだよ―――・・・、と。
 だが自分は血に濡れて、燃え盛る炎の街を見ていた―――――魔界都市〈新宿〉を・・・。




 何も考えず、ただ立ち尽くしていた。
 さぞかし凄まじい光景であったろう。
 身体中にぐっしょりと鮮血をアクセサリーに纏い付かせ、業火の地獄絵図を背景に佇む黒衣の凄絶な美貌の魔人――――どんな画家でも絵筆を取らずにおれぬような、それでいてどんな天才であろうとも決して描ききる事の出来ぬ絶望に生まれてきた事すら呪ったであろう、その情景――――幸か不幸か目の当たりにする者は誰もいなかったが――――いや、いた。
 ただ一人、いつのまに現れたものやら白く輝く影が。
「つくづく、無茶をする・・・・・」
 およそ普段は人間的な心の在り方とは無縁な白い影であったが、その時の声の響きは言葉の内容とは裏腹に、何処か誇らしげで恍惚としているようですらあった。
 せつらは、ゆっくりと白い影の方へ振り向いた。
 その頃にはもう“僕”に戻っていたが、それでも白い影に感嘆の言葉を洩らせるには充分過ぎるほどの凄惨美だったのである。 



 白い影が近づいてくる。
 せつらは無言。
 ケープの下から、造形の神が自ら作り上げたとしか思えない繊手がせつらの胸に伸びて、消えた。
 正確には、せつらの身体に溶け込んでしまった、潜り込んでしまったのだ。
「肋骨が五本折れて、うち三本は右肺に突き刺さっている。両肩と大腿部併せて、二十箇所以上の裂傷。体内の血液の五分の一は失われている。治療はここでも出来るが、輸血は病院へ行かねばならん」
 いつものように淡々と診察内容を告げるドクター・メフィストであったが、その声にもやはりいつもと違うものが見て取れた。
 せつらは頭を垂れて、じっとその言葉を聴いている。
 まるで、詩の朗読を聴くが如く・・・・・。
 業火のかもし出す轟音でさえも、美しい旋律だったのかもしれない。
 その二人のために。

 せつらはフイッと顔を上げたが、その瞳はメフィストを映さずに、再び紅蓮の炎の海と化した〈魔界都市〉を見つめていた。
 あまりにも強烈な炎は、見る者の心も魂も奪ってしまうのかもしれない。
 本来ならば白い医師の美貌が、奪われて行く魂を引き止めるところだが、その人外の美貌の魔力も世界で只一人、この若者にだけは無力と帰してしまう。
 反対に白い医師の方が、その黒衣の若者に見惚れてしまった。
 己の命の危うさも気に留めずに業火を見つめ続ける、その横顔――――かつてメフィストはそのせつらの容貌を、この世で一番美しい顔と評した事があるのだ――――ましてや今のそこには、人間臭い感情である哀しみも怒りも喜びも一切が感じ取れず、美がそのままに純粋に美としてだけ存在しているような、それでいて純粋さだけではない、危険なものも孕んでいそうな、そんなせつらの美貌であった。
 “僕”ではない、かといって“私”でもない、忘我の只中で炎を見つめ全身を鮮血で彩りながらも毅然と立ち続ける、それこそが本当の秋せつらという若者なのかもしれなかった。

想瞬譜
                         01