02

「私は知っていたよ・・・」
 白い医師は声に出さずに、そう答えた。
 だが今は医師としても、秋せつらに恋焦がれる一人の者としても、言葉にして伝える事は他にあった。
「下に車を待たせてある。来たまえ」
 せつらがどの程度大人しく従うのか、はなはだ疑問だったが、言うべき事は言わなくてはならない。  
 果たして予期しない事が起こった。
 せつらは炎に視線をおいたまま“メフィスト”と言ったのである。
 秋せつらはどんな状況にあっても、やはり秋せつらであった。
 自分を見失う事をしない。
 だからこそメフィストは彼の事を誇りに思うのだ。
 だがメフィストの名前は最後まで呼ばれる事はなかった。


 途端にせつらは前屈みになり、右手を口に押し当てた。
 ごぼりと音がして指の隙間から鮮血が滴り落ちる。
 せつらの膝が崩れ折れる前に、メフィストがその身体を支えた。
 秋せつらは、どんな状況にあっても秋せつら。
 支えながらも、はっきりとメフィストを見つめた。
 “私”でもなく“僕”でもなく、かつてメフィストを魅了したその眼差しで。
「メフィスト・・・・・」
 血で溢れた唇で、弱々しいながらも今度はしっかりと呼んだ。
「終わった」
 もうこの若者には先程までの戦いも、過去の出来事の事でしかないのだ。
 いや、ひょっとしたら眼の前で燃え盛っている炎でさえも・・・・・。
 〈新宿〉の化身とも呼ばれるこの若者は、一瞬後には過ぎ去っていくすべての出来事に対する想いを封じ込めて、次への運命に身を投じて生きていくのだろう。
 それが超人類としての意識の在り方であるのかどうか解らないが、この潔さにはメフィストですらも感嘆の溜息を洩らさずにはおれなかった。

 黒衣の若者の身体は白い医師の腕に抱きとめられている。
 抱きとめながらもこの医師の治療は可能なのか、せつらの口元から鮮血が溢れる事はなかった。
 身体中に浴びたようだった大量の血のアクセサリーも、いつのまにか薄らいでいる。
 一度出血した血液も、可能な限り体内に戻す事ができるのかもしれない・・・・・この医師ならば。
 その証拠にせつらの顔色も幾分かマシになっているようである。
 メフィストはせつらを見つめた。
 不思議な眼差しで。
 せつらはメフィストを見ている。
 いつもと同じに。
 何だかこいつは、気がつくといつも側にいるなあ・・・、というふうに茫洋と。
 それでもメフィストの次の行動に待ったをかける事ができなかったのは、やはり流石にいつも通りと言うわけにはいかなかったからだろう。心も、身体も。
 月は嫉妬したろうか?

 メフィストはせつらに顔を寄せて、そして―――その唇をせつらの唇に重ね合わせたのである。
 一瞬、身体を強張らせたせつらだったが、メフィストを撥ね退けようとはしなかった。
 だが流石に驚いたとみえてメフィストが唇を離すと、眼をやや見開いてメフィストを見つめている。
 白い美神も静かに若者を凝視し、これもせつらにだけ認められる事だが、深い黒瞳に悲哀さえ湛えて黒衣の若者の名前を呼ぶ。
 薄く朱を引いた様な唇だけを動かして・・・・・。
 そして再び重ねる。深く。
 いつのまにやらメフィストの手はせつらの背中に廻され、せつらの傷付いて疲れきった身体を抱き寄せていた。
 せつらはきつく目蓋を閉じて、メフィストのケープを握り締めている。
 いつものせつらの行動ではない。
 またいつものせつらならば、相手がこの医師であろうとも、いやこの白い医師だからこそ付け入らせる隙を与えるものではなかった。
 やはり炎に魅入られていたのかもしれない。
 まだ衰える事を知らぬような燃え盛る〈魔界都市〉を背景に、白と黒の相反した美の結晶は、限りなく一つに熔けていた。
 何と美しく、凄まじい光景であったろうか。
 と、しばらくして黒い影の方が崩れ落ち、意識を失ったせつらは今度こそしっかりと白い医師に抱きかかえられていた。





「・・・ったく。おかしなマネをしてくれるよ」
 メフィストの手でよって眠らされたのは、これで二度目だ。
(*注*・・・以前に『聖杯伝』 という漫画内で、お茶に薬をもられて強制的に眠らされた事を指している)
 せつらの身体を気遣っての事であろうが、いささか見栄坊な傾向のあるこの若者としては、他人に気遣われたり労わられたりするのは、大の苦手なのだった。
 ましてや、〈魔界医師〉なんかに―――・・・。
 衣服の事から気絶させられた事を憶い出し、いつもの調子が戻ってきたのか早速悪態をついてみたものの、当の苦情を述べる相手がいない勝手の違いから、自然とごにょごにょと呟くだけに止まった。
 とにかく今の最大の目的はフロである。
 ところが一糸纏わぬ姿のせつらであるからそのままバス・ルームに直行すればよさそうなものだが、どうにも裸でベッドから出て歩く気にはなれない。
 いくらメフィストがここの部屋の主人は君だと言っても、ここはあくまでもメフィスト病院の八階なのだ。
 人の家だという意識が強い。

 育ちの良いお坊っちゃんが途方に暮れるように、両膝を立てて頬杖をつきながら真っ白なシーツに包まっている。
“このまま巻き付けて行ってもいいけどな・・・・・”


 それとせつらには、もう一つ気懸かりな事があった。
 自分の店がどうなったか・・・、ということである。
 昨日のあれ程の大火災である。いくらせつらといえども心配になるのは当然な事といえた。
 だがそれだったらもっと早く気にしろよ、という事になるのだが、昨夜のせつらはそれどころではなかったのだから、しょうかないといえばしょうがない。
 ただ、バス・ルームまで辿り着くのと同じレベルで悩んでいるというのが、この若者のおかしな部分である。
 んーっと、頭をカリカリと掻いて、ふと眼を上げると・・・。
 ベッドの中程、自分の足元の箇所に、新聞や週刊誌の分厚い束と白いバス・ローブ。
「・・・・・・・・・・・」
 事ここに至って、せつらにはようやく白い医師の言った真の意味が解り始めてきた。
“ここの主人は君だ―――”


 もしも主人の求めるままに必要に応じて望みの物を出すことができ、望み得る限りの快適さを提供するだけの能力を部屋が持ち得ていたら、部屋はいくらでも奉仕する事に歓びを感じてしまうに違いない。
 執事も兼ね備えた能力を持つ部屋は、どうやら気づいてくれるのを待っていたようだった。
“このぶんだと煎餅を焼く道具一式が欲しいと思えば、材料共々出てきそうだな・・・”
 いささか好奇心が鎌首をもたげたが、意味のないことなのでやめた。
 右手でバス・ローブを引き寄せて、素早く引っ掛ける――――なんだかメフィストの“白”に似ている・・・手触りはシルクのようだが――――新聞の内容を物色し始める。
 すると天井から、新聞を読むだけの光量の明るさが落ちて来たのである。せつらは眼を細めて天井を見上げたが、ライトらしい物は確認できなかった。
 部屋は、お気になさらずにどうぞお続け下さいと言っているようだった。
 とりあえず主人はお気になさらず、作業を続ける事にした。
 〈新宿日報〉と〈“魔界都市”トピックス〉――――二日先の物まであるのはどういう仕組みなんだか――――それからその他の情報誌、週刊誌、〈区外〉の新聞まである。
 説らはその中で、被害地域と状況を詳しく絵図で説明している、今日の夕刊(今はもちろん朝である)の〈新宿日報〉を選んだ。
 真っ先に西新宿四丁目を視る。
 じっと凝視して―――それでもこの若者の場合、ボーッとしているようにしか見えないが―――少し肩の力を抜く。

 西新宿の辺りは被害が少なかったようである。
 もちろん自分の店も大丈夫だ。
 次いで高田馬場と戸山住宅に眼を向ける。せつらの表情から大丈夫そうなのは見て取れるが、でもまあ、あの連中なら何が起こっても平気だろう。
 被害の一番酷かったのは、富久町、余丁町、新宿五丁目、新宿六丁目、大久保と歌舞伎町の一角辺り――――今頃、病院は何処もてんてこ舞いの大忙しに違いない。
 もっともこの病院だけはどれ程の患者を抱え込もうとも平然としているだろうが。院長と同じで。
 メフィスト病院のベッド数と病室が一体いくつあるのか、副委員長でさえ把握していないとのもっぱらの噂だ。
 せつらのためにあつらえたこの部屋の存在を、知っている者もいるものなのかどうか・・・。
 そもそもここは本当に、メフィスト病院なのかと思ってしまうくらいに、浮世離れした部屋であった。
「・・・んーっ。うん、よし」 
 一通り、ざっと新聞や週刊誌を眺めて満足すると、せつらはベッドサイド・テーブルの黄金の電話に手を伸ばして、自宅の六畳間の方の番号をプッシュし始めた。
 それから自分の暗証番号を押す。
 留守番電話を聴いているのである。
 さして急ぎの用も入っていない。店も今日は定休日である。
 したがってバイトの娘に電話する必要もない、と・・・。
 ここまで用を済ませて、ようやくせつらは最初の目的―――フロに入る行動に移す事ができる。
 魔人といえども、いろいろと気苦労があるわけである。
 とりあえずここはまだ人間の世界という事だ。



 たっぷりとしたバス・ローブの前を併せながらベッドから滑り降りたせつらは、ベッド下にきちんと揃えて置かれていた金糸・銀糸の豪華なスリッパには眼もくれず、裸足のままにスタスタとバス・ルームらしいドアへと向かった。裸足の触れる床は大理石だが、その上に敷き詰められた絹のきらびやかな絨毯は、大理石の持つひんやりとした硬い不快な感触を主人に伝えはしない。
 ドアの前に立ちドアを妖糸で開けようとすると―――妖糸で開ける?確かせつらは、それこそ一糸纏わぬ姿で目醒めた筈だ。それに糸は全部メフィストが取り上げた筈である。いったい何処に隠し持っていたものやら―――ドアは勝手に開いた。結局、妖糸を使う必要もなかったわけである。

「うん。もう慣れた」
 そう呟くと、躊躇する事無く足を踏み入れた。
 中は寝室よりも暖かで、思ったよりも広くできている。
 黒曜石と薄いピンクの水晶で出来た室内。
 むかって右側に洗面台があり、左側にはもう一枚ドアが見える。
 洗面台の向こうが半分だけ水晶の壁になっているのを通り過ぎると、そこには豪華なドレッサーがでんと備え付けられ、その上にはどういった用途に使うものかカットの見事なガラスの小瓶や刺繍をほどこしたブラシが置いてある。ドレッサーの横は壁の中が棚になっていて、フェイスタオルにバスタオル、バス・ローブにガウン、簡単な部屋着まである。
 床にはやはり絹の絨毯が敷き詰められていて、中央にはこれまた見事な時代絵巻を刺繍でほどこした衝立が立っていた。その脇も通り過ぎて三メートルばかり行った所に脱衣する場所が左側、タオルなど備え付けられてある棚が右側、その中央にある黄金と水晶でできた扉がようやくせつらの目指すバス・ルームらしかった。


「やれやれ・・・、辿り着くまで遭難しそうだよ」
 ぼそりと、せつらは独りごちた。
 “部屋”はお気に召しませんか?、と慌てたかもしれない。
 せつらが扉の前に立つよりも早く、音もたてずに開いたのである。
 せつらの顔面を湯気と甘くて青臭いハーブの香りが撫でて、主人の御機嫌を和らげるのに効果を上げたようだ。バス・ローブを身に着けたまま中に入ると、扉はひとりでに閉まった。
 シャワーにお湯と水が出るらしい金の蛇口、黄金でできた小さな円卓の上にはハーブを盛った皿とタオル類、泳げるんじゃないかと思えるくらいに広い、これまた水晶よ黄金で出来たりっぱなバスタブ・・・・・。
 “僕”のせつらとしては檜の風呂の方が好みかもしれないが、昔のハリウッド映画に出てくるような泡ぶくのバスタブを眺めて、好奇心がこれでいいやと納得したようだ。
 せつらの白い手が泡の中に差し込まれる。適温。
 熱くもなくぬるくもなく、いまのせつらの望むまま。

「ちょうどいいや」 
 そう言って多少満足そうに頷くとバス・ローブを着たまま、―――着たまま?―――バスタブに入った。中で脱いで、それをパシャンと外へ放る。
 せつらの視界の隅で、たちまちそれは消えて処理された。
 バスタブの端に引っ掛かっていた黄金のカゴの中からスポンジを取り出し、バスタブの中で身体をごしごしと洗う。気の済むまで洗い終えると、頭ごとザプンとバスタブの中に潜り込んでしまった。どうやらついでに頭も洗ってしまうらしい。しばらくザブザブやっていたが、泡だらけのせつらが顔を湯舟から上げると、シャワーのお湯が降って来た。勝手に。
 その上せつらが片手をバスタブから出すと、その手にはフェイスタオルがちゃんと乗っかっており、せつらはそれで顔と頭を拭くとバスタブの端の上にそれをたたんで置いて、その上に頭を乗せた。
 バス・ルームの天井を仰ぎ見る形で顔を上に向け、静かに目蓋を閉じる。