03

 ふうーっと深呼吸を一つして、やっと人心地ついた感じだが、その美貌にいまひとつ晴れやかさが見られない。
 それでもこの美貌の若者を手に入れるために、いや、その憂いを無くする為だけにも、国の一つや二つ差し出す者は後を絶たないかもしれないが――――何か・・・先程の新聞や週刊誌から得た情報とは全く別の気にかかる事が、この若者の心を占めているらしかった。その証拠に部屋の光量、これがせつらの今の心情を表すかのように薄暗いままであった。このバス・ルームも。
 せつらが命ずれば、あるいは考えただけでも、部屋は自らカーテンを引き主人の望むままに陽光を満ち溢れさせる事だろう。たとえ窓の見られないこのバス・ルームでさえも・・・。

 そうならないという事は、せつらがこれくらいの薄暗い明るさを望んでいるという事であった。無意識のうちに。
 何でも主人の望みを叶えうる部屋、―――その中にあって一体何を・・・?
 昨日までの戦いの事だろうか?
 いいや、そうではないだろう。
 様々な修羅場をくぐってきたこの若者ならば、そんな事は充分承知でいつも戦いに挑んできたのだ。
 どれほど自分が傷つこうとも・・・・・。
 それだからこそこの若者は誰をも魅了するくらいに美しく、何よりも輝いてみえるのである。
 気懸かりは別にあった。
 せつらの心の中に何度も姿を掠めながらも、ついぞ部屋が主人の望みを叶えうる事が出来なかった者――――その存在。
 部屋はさぞかし困っただろう。
 まさかこれだけはおいそれと出す事はできない。
 自分の創造主を出す事だけは・・・・・。

 せつらの気にかかっていた事―――せつらが目醒めた時に、ドクター・メフィストは側にいなかったのである。
 だがまさかドクター・メフィストともあろうものが、秋せつらの目醒める時に側にいないなどという事がありえるだろうか?
 ましてや、昨夜は―――・・・。
「病院がてんてこ舞いなのかな・・・」
 せつらはかったるそうに呟いた。とりあえずは言っておこう、みたいな感じで。
 そして次にはやや確信を持って、物憂そうに。
「やっぱ、あれかな・・・」
 呟いた後に首をやや横へ傾け、眼を開けた。
 ――――昨夜ベッドの中でせつらは、“私”にならなかったのである・・・。






 昨夜の闘いの後でこの部屋のベッドで目醒めた時に、メフィストはせつらのベッドの傍らにルイ十四世王朝時代の椅子を持って来て腰掛けていた。
 何もかもを黄金に輝かせる事のできる、人界外の玲瓏たる美貌の持ち主―――ある者はそれに心を奪われて二度と現世に魂を戻す事がないかもしれない、またある者は見てはならないものを見てしまった恐怖に怯え、人として生きる術を見失ってしまうかもしれない―――彼は月の光を纏わりつかせて、静かにせつらを見下ろしていた。

 ずっとそうしていたかのように、そしてこれからもずっとそうしているかのように。
 起きてすぐのせつらがしばらくの間無反応だったのは、別にその白い医師の美貌にあらず、なんで自分がここに居るのか記憶を探っていたためだ。―――それとあと一つ・・・。
 メフィストの眼差しが、なんと言ったらいいのだろう・・・、おおよそ患者に対してもこんな眼差しはすまい。
 例えせつらが患者だったとしても、だ。
 初めて見るメフィストの表情だった。
 何ともいえずに穏やかで、それでいて何かを希求してやまないような、それを得るためにこの医師は何を代償として支払おうというのか。“僕”のせつらにさえもそんな危惧を抱かせてしまう眼差し―――その表情。
 お互いが見つめ合った、不思議な沈黙が流れた。
 それともお互いに相手が切り出すタイミングを計っていたのかもしれない。だが通常ならば、せつらの方が先に口火を切りそうなものだ。しかし言葉を発したのはメフィストが先であった。
 どうも勝手が違う。


「気がついたかね」 
 白い医師の方も通常だったらここでいつもの冷厳さを取り戻すところだが、先程からの表情は変わらず、むしろ口元に微笑みさえ湛えている。
 これもまた勝手が違う。
 そんないつもとちぐはぐな状況で、次にせつらが取った行動はしごくまともなものだった。
 彼はいきなりガバッと跳ね起きるや、シーツを捲り上げ着衣をしているのを確かめ、胸に手をあてると両目を瞬かせ、次いで眼球だけを上げて上目遣いに〈魔界医師〉を見つめた。
 ひょっとして本人は睨みつけたつもりだったかもしれないが、メフィストの表情は変わらなかった。
 何とのいえずに穏やかで、以下、云々・・・。

 せつらは下を向いて頭を抱えた。
「どうしたのかね?」
 白い医師は優しく訊ねた。
 囁くように。
「頭が痛む」
 と、せつらの低い声。
「それはいかんな。診察させて戴いてよろしいかね?」
 いささか愉しげなメフィストの声であった。
 せつらは口元に片手をあてながら、もう一度眼球だけを上げてメフィストを見た。
「あれ以上―――、何もしていないだろうな?」
 まるっきり迫力はないが押し殺した口調で訊ねるせつらから、そっぽを向きながら白い医師は、“さて”と答えた。答えてからこちらへ向けた顔の表情は、先程のままだった。
 せつらをからかっているようでもある。どえらく機嫌がいい。
 もちろんせつらにしか解らない程度だが・・・。せつらは無言。呆気にとられたのかもしれない。
 そんなせつらの様子を微笑みながら見つめている―――〈魔界医師〉が。
 まあいつもここらへんは、せつらにしてやられているのだから白い医師としては一矢報いたというところなのかもしれない。


 何か言おうとしたせつらより前に、メフィストが放った言葉はしごく平凡なものだった。
「空腹ではないかね?」
 あまりに日常的な会話の一部だが、この医師の場合はきわめて希少な発言となる。
 それはともかく、せつらはここ二~三日ばかりろくに食事を摂っていない事を憶い出した。それどころか何か口に入れたのかも覚束無い有様だ。確か人形娘のところでお茶を飲んで、クッキーを摘んだ記憶はあるけれど・・・。
 せつらは宙にうかせていた瞳を戻して、こくりと小さく頷いた。
 それを見てとったメフィストは椅子の傍らにあった黄金のワゴンをベッドの端まで寄せて来た。
 ワゴンの上には料理が入っているらしい、大小の半球形の蓋で覆われた深皿に小皿、箸にお茶のセットが乗っかっている。
 メフィストが大小の皿の蓋を開けると、小さい方にはライスが、大きな方には幾種類かの料理が皿に盛り付けてあった。
 ぷうんといい匂いが鼻孔を掠める。
 思わずお腹に手をあてたせつらは、それで本当に自分が空腹だった事を知ったのだった。
「君が最近よく行くというエスニック料理店から取り寄せた。お茶を先に少し飲むかね?」
 せつらが頷くより早く、メフィストはお茶の支度をしている。
 〈魔界医師〉がお茶を煎れる?
 せつら以外に、いったい誰がそれを目撃した者がいただろう。
 その上、食事のサービスまでするとなると、これはもう・・・。


 せつらはのそのそとベッドの端に腰掛けた。
 メフィストから手渡された湯呑みからは、ジャスミンのいい香りがしている。
 熱くもなく温くもなく、ちょうどいい温度。
 こくりこくりと大人しくお行儀の良い坊やのように飲んではいるが、ただしメフィストへと向けられている視線には油断のならないものがある。
「おまえは食べないの?一人で食べるのを見られんのって、厭なんだけど」
 まさかそんな事を気にする若者ではあるまい。
 だがメフィストはそれをどうとったものか、頷くと、箸と小皿とを手に取った。そして盛り付けられた料理からエビチリを小皿に取り分けた。
「いただこう」
 せつらはそれを興味深げに見守りながら、自らも箸を取り上げた。
 そして手を合わせてこちらも、「いただきます」と言った。
 実に育ちの良いお坊ちゃんだ。
 ただしこれも、時と場合と相手によって使い分ける。



 食事は沈黙の中で行われた。
 先程までの死闘など、この二人にはもはや話題に残る価値もないのかもしれない。
 この街がどうなっていくのかなど、〈魔界都市〉だけが知っている。およそ自分達の気にする事でもあるまい。そのようにでも考えているのかもしれない。
 一仕事を終えて、やるべき事を済ませてしまった男達には、目的を成し遂げた充実感と清々しさなど微塵も見られず、ただ美しくそこに存在している。
 神の創り出した最高の造形と魔王の実力を兼ね備えながら、この〈新宿〉の象徴として――――・・・。
 そんなおよそ人間離れしている二人だから、こんな浮世離れしている部屋で食事を摂ったからといって、過ぎ去った俗事に今更煩わされる必要もないのだろうが、その沈黙にはいささか別の理由が入り込んでいたらしい。

 メフィストはすでに箸を置き、黙々とお茶を飲んでいる。
 せつらはまだ食事中だが、心ここに在らずといった風情。
 何を考えているんだか・・・・・。

 せつらの食事がもう終わりに差し掛かっていると見て取ったメフィストは、きわめて平凡に沈黙を破った。
「お茶をもう一杯、飲むかね?」
 対してせつらは“うん”と頷くものの、まるで覇気が感じられない。いつも以上の茫洋振りである。
 もっともせつらの場合、もう考えるのも面倒臭いだけなのかもしれなかったが。
 箸を置いてもくもくと湯呑みを傾け、その作業も終えると、ほうっっと一息吐いて湯飲み茶碗をワゴンの上に置いた。
「もういいのかね?」
 そう訊ねるメフィストに―――なんというサービス振りだろう、この〈魔界医師〉が―――せつらはもう一度、“うん”と頷いた。
 無邪気な天使の仕草だ。
 とびきりの。
 どんな美女もこの仕草に恍惚となりそうだった。

 メフィスト?
 メフィストは静かに見つめている。
 眉一筋、動かさずに。
 だがそこにどれ程の感情が隠されている事か。この若者に関してだけは。


 白い夢がおもむろに口を開いた。
 その途端にかぐわしい花の香りが部屋に満ちるようだ。
 いや、――――それは随分と前からこの部屋に立ち込めていたのだが、せつらに気づいたものかどうか。
 今やその芳香は別の意味合いを持って、この部屋を支配し始めている。何か危険な予感さえ忍ばせて・・・。


「何か言いたい事がありそうだ」
 〈魔界医師〉が訊ねる。
 ―――――こんなさりげない事を?
 だがその一言で部屋の空気が一変した。より危険なものへと。
 せつらは気がついていないのだろうか?・・・果たして彼の答えは眠そうでかったるいものだった。
「別に・・・」
 髪を掻き揚げながら答える。
 本当に眠そうだ。だけど本心は?
 メフィストだけにはその事が解るのだろうか。
 空気がゆるいものに変わった。
 口元に笑みを浮かべている。
 ワゴンを脇にどける。と、たちまちにそれは消えて無くなってしまった。
 せつらは気にもしない。
 白い医師のやる事だ。
 一々気にしていてはきりがないといったところだろう。
 だが流石に次の行動には面喰った。
 髪に触れてきたのである。そこまではいい、まだ。
 手首を摑んで来たのだ。
 ドクター・メフィストが秋せつらの手首を。
 せつらは驚いてメフィストを見つめた。
 それでも茫洋としている。
 もう少しくらい慌てろよ、という場面だが、せつらの反応の鈍さは何か仕組まれたものでもあるらしかった。
 メフィストの何らかの魔力が、秋せつらに影響を及ぼしているのだろうか。