03

「君は患者だ」
 ふいに耳に入ってきた言葉に、せつらは目を見開いた。
 静かな口調だった。
 だが冷たくはなかった。
 むしろ温かみさえも感じて、せつらはメフィストの方へと顔を戻した。
「そんなに気を張り詰めている事もなかろうに・・・」
 せつらに向けられている眼差しは優しかった。
 今のせつらはメフィストの患者なのだ。


 そしてせつらの両頬を自らの両手で包み込んで、さらに身を屈めると―――――顔を寄せ、自分の唇をせつらのそれに重ねた。
 冷たくて柔らかい、労わるような口吻けだった。
 だがせつらはとっさにタオルケットの上に出していた両腕で、メフィストの身体を撥ね退けようとした。
 しかしさして力を入れて押さえ付けているとも思われないのに、白い医師の身体はびくとも動かなかった。
 唇と唇の隙間から、せつらは呻いた。
「やめ・・・ろ」
 身体がどうしようもなく震えている。 
 唇が敏感に感じやすくなっていた。
 胸の昂りは不安のためだけではなくなっている。
 甘い狂おしいまでの疼きが、徐々に身体全体に拡がってゆく。
 だがそれは、せつらの本意ではない。
 メフィストには、きっと解っている。
 なのに止めようとはしない。

 優しい触れるような唇の触れ合いから、せつらの唇の隙間へと舌を滑り込ませてきた。
 深く、深く口吻けられる。
 せつらの身体の強張りを解きほぐす様に。
 せつらの背が弓のようにしなる。
 メフィストの両手はいつのまにか、せつらの首筋の後ろ側と、しなった腰に廻されていた。
 長い、長い口づけからようやく開放されても、せつらの身体の震えは治まらなかった。
 心臓の鼓動はよりいっそうに速くなり、身体は熱く、呼吸も忙しなかった。
 己の指が股間へと伸びようとするのを、せつらはタオルを握り締めることで耐えた。


 はっきりと自分が欲情しているのだと理解していた。
 だがあの“夢”の後でなら、メフィストに触れられてしまえばどうなってしまうのかも解っていた。
 だから怖れたのだ。
 だからどうしようもなく身体が震えたのだ。
 もちろんせつらの本意の望みではない。
 こんなふうに感じさせられてしまうなど。
 でも、もう何も解らなかった。
 考えたくなかった。
 早く開放されたかった。
 いつまでもこんな醜態を演じていたくない。
 それにいつまでもこんな状態でいたら、メフィストに悟られてしまう。
 “夢”の中の相手が、いったい誰であったのかを。


 その相手の名前を呼ぼうとして、どんなに切ない想いを味わったのかを。
 それだけは絶対に知られたくなかった。
 知られるくらいなら、“悪夢”を見続けていた方がいい。
 “夢”のその相手は、あんなにせつらを愛してくれたのだから。
 だから、早く―――――――。
 早く、ここから抜け出したい・・・・・。



「もう・・・、いやだ・・・」
 せつらは力なく首を横に振りながら、弱々しい声でメフィストにそう言った。
 いままでこの医師に対しては、弱みなど見せたことのない若者だったのに。
 だが白い医師はせつらのその声が聞こえているのかいないのか、かまわずに繊手をせつらの首筋から胸へと這わせた。
 せつらの身体が小さく跳ねる。
 せつらはとっさに固く眼を瞑り、顔を背けた。
 きっと自分は欲情にまみれた、あさましい顔をしているのに違いないからだ。見られたくなかった。
 明るい室内は、何もかもを曝け出してしまっているのだろう。
 惨めだった。
「やめろ・・・もう。帰らせ・・・・・」
 荒い息の中で、ようやくそれだけを言葉にのせた。
「夢の中でも、君は私にそう言ったのかね?」
 弾かれたように、せつらはメフィストを凝視めた。
 やっぱり解ってしまっていたのだ。この白い医師には。
 茫然と白い医師を見ているうちに、タオルケットを握り締めている指の力が緩んだ。
 と、その隙に――――――――。


「止せっ!」
 メフィストがタオルケットを剥ぎ取ったのだ。
 せつらの裸身が人工の灯りの中で眩しく輝いた。
 見られてしまう。何もかも。
 醜い欲望の証も、すべて。
 身を捩って治療台から逃れようとするせつらの両手を、いったいこの繊手でどうやってと思うような強い力で、メフィストは押さえ込んだ。
「くっ・・・、離せ・・・・・」
 なんとかもがいて離れようとする、せつらの試みは無駄に終わった。
 どうしたものかメフィストに摑まれた手首から、抗おうとする力が抜けていったからだ。
 せつらは抵抗する事を止めた。
 またあの、官能的な甘い疼きがせり上がってきて身体を支配してしまったからである。
 せつらはぐったりと、疲れたように呟いた。
「もう、やめろ・・・」

「治療はまだ終わっていない」
 冷厳たるメフィストの声であった。
「今の君は私に触れられただけで、自分が押さえられなくなるくらいの性的な衝動を覚えている筈だ。あの妖花の効果は、まだ続いているのだ」
 診察の内容を告げるメフィストの声には、どんな感情の揺らぎも読み取れなかった。
「何も怖れる必要がない」
 患者を安心させる、ドクター・メフィストの声であった。
 せつらは瞼を開けて、白い医師を見た。
 灯りの影にはなっているが、この医師の顔はほのかに輝いているのだった。
「私が君に、酷い事をするとでも?」
 この言葉はせつらに対してのものだった。
 愛しい者に対しての。



「灯りが眩しい・・・」
 せつらそう言うと、白い医師は口元に笑みを浮かべた。
「わかった」
 メフィストがそう言った途端に、室内に満ち溢れていた照明の灯りは光量を落とした。



 メフィストの唇がせつらの首筋を這った。
 せつらは身体を戦慄かせた。
 メフィストの指先がせつらの胸の突起に触れた時、せつらはたまらなくこの医師が欲しかったのだと思った。
 だがまだ心は頑なで、それに伴ってどうしても身体の強張りも抜け切らない。
「怖がることはない」
 せつらは胸に舌を這わせている、白い医師の声を聴いた。
 怖れたのは、素直に欲しいと思うことだった。
 例え、妖花の魔力に罹っていようとも、この医師に抱かれたいと認める事だった。
 メフィストの愛撫は巧みで、それでいてせつら自身を侵す事もなく優しく、絶頂への高みへと追い上げていく。
 まるで“夢”の中のそのままに。
「声を上げたまえ。外には聞こえんよ」
 何とか洩れてしまう声を噛み殺そうとしているせつらに向かって、メフィストは耳元で囁いた。
 せつらは喘ぎながら、
「おまえに・・・聞こえる・・・」

 せつらとしてはせいいっぱいに張った意地だったが、まともに喋れたのはそれが最後だった。
 メフィストの愛撫が下半身に移ると、自分でも信じられないくらいに喘ぎ声を上げた。
 メフィストの口唇が、せつらのもっとも敏感なところに触れると、もっとその感覚を貪ろうと自ら腰を上げた。
 一番奥に秘められた蕾にも触れて欲しくて、焦れたように膝を曲げて足を立てた。
 メフィストはせつらのその、すべての要求に応じた。
 欲しかった。 
 もっと、もっと。
 本当に、たまらないくらいに欲しかった。
 切なくて恋焦がれていて、身体が求めていた。
 こんなにも激しい感情が自分にあったなんて、せつら自身、とても不思議だった。
 だけど、嘘じゃなかった。
 例え、魔花の力によるものにしたって。
 メフィストに抱かれたい気持ちは本当だった。
 偽りの感情であったとしても。



 この白い医師に逢うのは一週間ぶりだったが、そのさらに二週間前に、せつらはメフィストの腕の中にいた。
 そしてその腕に抱かれながら、どこからともなく流れてくるブルースを聴いていた。
 この街でしか流れる事のないブルースを。
 メフィスト病院の八階で。
 そして白い医師が、何度も自分の名前を呼ぶのを聴いていた。
 それは、愛しげに優しく・・・・・。
 信じられないほどに。
 それから今日に至るまで、メフィストとせつらは肌を触れ合わせることはなかった。