04
漆黒の瞳がせつらを凝視める。
あの眼差しが戻って来ていた。
「私はかつて君に訊いた。何処から来て、何処へ行くのかと――――その答えを今夜、教えて欲しい・・・」
かつて稀代の碩学を誘惑し惑わし、この世ならぬ世界の知識と引き換えに破滅を与えた悪魔――――その同じ名を持つ男。
一体、この医師に出会った何人の者が、その伝説が現実のものであると思い知った事だろう。
事実せつらにしたところで、何人もから聞いた事がある。
だがこの若者とて並の神経の持ち主ではない。
悪く言えば無頓着、良く言っても神経が図太いというところだろう。別にそれならそれで結構な事だ、というわけだ。気にもしていない。
だが――――今、その事を憶い出した訳は・・・。
それは、たとえ何を犠牲にしても自らの求めるものを得たいという、渇望にも似た激情の光をメフィストの瞳の中に見出したからだ。
いったいこの男の何処にそんな人間臭い、だからといって到底人間が持ち得ないような、暗い情熱のような激しい想いが潜んでいたのだろう。
せつらはぼんやりとメフィストを眺め、その言い伝えられる学者と悪魔の伝説の陰に隠れた、もう一つの物語を考えていた。
不実な学者に愛を捧げ、牢獄に閉じ込められ、純真を守って死んで逝った乙女・・・・・、彼女は名前だっただろうか?
せつらはメフィストから視線を外し、下を向いて口を開いた。
「何処にも行かないさ・・・。ここにいる。ずっと・・・」
やや疲れたように呟く。それから少し明るい声で、
「何処から来たのかなんて知らない。どっかの情報屋にでも訊いてくれよ」
小憎らしくそう言い放つ。いつもの“僕”の元気が少し戻ってきたようだ。
メフィストの目元がほころんだ。だがそれは微笑みのためではなかったかもしれない。
「だが、教えていただく。君自身に」
せつらの手首はメフィストに摑まれたまま。
メフィストはもう片方の手もそれに添え、恭しく持ち上げた。
そしてせつらの手を返し、手の平を上に向けてそこに口吻けた。
その途端に、せつらは身体に軽い電流が走ったような刺激に思わず眼を閉じて、身体を引こうと試みた。
だがそれは叶わなかった。
メフィストの手が押さえているのだ。
代わりに引かれた。
ベッドの上に倒れ込んだ。
メフィストがせつらの両脇に手をついて、上から見下ろしている。
部屋が翳った。
どういう仕掛けなのか、光量が落ちて薄暗くなった。
それがかえってこの白い医師の、この世ならざる白い美貌をくっきりと浮かび上がらせていた。
芳香はますますにきつい。
「糸は全部お預かりしているが?」
メフィストは言った。闇にも光にも相応しい声で。
だが秋せつらの妖糸を全部奪い取るなど、本当に可能なのだろうか?
たとえドクター・メフィストといえども。
せつらはそれを聞いて、ふうん・・・、とさして面白くもなさそうに答えた。
そして、だけどね、と続けて言うことには。
「男とは寝たくないんだ」
それを聞いたメフィストはやや眉を寄せて、いささかの侮蔑を口元に掠めさせた。
「だからといって女の肉体なら何でもいいという訳でもあるまい。別の君が何と言うのか訊ねてみたいものだ。だが君の意思を尊重しよう」
せつらは何をするんだというような顔付きで見上げてはいるが、メフィストを撥ね退けてこの状況を脱出しようとは考えてはいないらしい。
メフィストの鬼気に溢れたこの部屋で何かをしようという気力を起こすのも面倒臭かったのもあるし、第一抵抗するだけ無駄というものであろう。
それだけの迫力が、今日のメフィストにはあったのである。
それとどうやらこちらの理由の比重の方が大きいらしいのだが、先程からのメフィストの眼差しに心魅かれるものがあったのだ。いつも変態だのヤブだのと罵ってがいるが、だがあの眼差しは・・・・・。
それでも一応、悪あがきだけはしてみるつもりだった。
潔い時には本当に胸がすくぐらいに潔いのだが、往生際の悪い時にはとことん往生際の悪い男であった。ちなみに今の状況は、いちゃもんをつけているといったぐらいだろうか。
そう易々とは思い通りにはさせないぞ・・・、といった具合で。
それとせつらは、ほんの少しだが疲れていたのだ。
メフィストの治療は完璧だっただろうが、心に残る先程までの死闘の影はなかなかおいそれと消えるものではなかった。
そんな心情を察しているのかいないのか、メフィストは再び口を開いた。闇にも光にも似つかわしくない声で。
「肉体はいらぬ。君は私を感じてくれるだけでいい・・・」
言葉の最後の方は優しかった。
その台詞の意味を測りかねてかねているせつらの胸元にメフィストの繊手が伸びて、指先でつうっとなぞった途単に、せつらの衣服は千々に破れ散ったのである。
せつらは勢いよく、ざばんっとバス・タブから上がった。
間髪おかずにシャワーのお湯が振って来る。
湯気の中で煌めく裸身。
さっぱりと洗い上げたわりには、相変わらず浮かない顔付きだった。もちろんこの若者の美貌を損ねるものではないが・・・。
目蓋を閉じながらシャワーのお湯に身をゆだねる様は、きわめて日常的な行為でありながら非日常的な光景を醸し出していた。
黄泉の国へと妻を連れ去られた詩人のように・・・・・。
そしておもむろに目蓋を上げるとシャワーのお湯は自然と止まり、せつらは円卓の上のバスタオルを引っ掴んで頭と身体をゴシゴシと拭き始めた。
そんな荒っぽい粗暴な動作でも、この若者がやるとこの上もなく優雅に見える。
それからバスタオルを首に引っ掛けると、頭をコツンと壁に寄り掛からせた。目蓋はまた閉じている。
「やっぱり、あれだよなあ・・・」
物憂い詩人の声は、どこか重たげであった。
よく、見も心も解け合ったというのがあるが、それがまさしくそれだった。
最初はしごく普通の性行為であるといえた。もしそう呼んで赦されるのであれば。〈魔界医師〉にもそれを当てはめるというのなら。
せつらは裸身を曝け出していたし、メフィストはせつらの身体中に触れた。それは優しく。
そしてせつらは身体中に口吻けを受けた。それは深く。
おかしな小業や術などは必要がない――――この医師の場合。
ただ見つめるだけで相手はどんな要求でも受け入れるだろう。
もし治療以外の意図を持ってこの医師が相手に触れれば、その相手の魂はこの世に二度と還り来ぬ煉獄へと、何処までも永遠に堕ちて行くに違いない。
以前にせつらはこの医師に、指一本で女性をよがり殺せる医者――――と評した事があるのだ。
人外の吸血鬼をも魅了した口吻けは、せつらをも虜にする事ができるのだろうか?
メフィストはあきらかに意思を持って触れてきた。
そして口吻け、せつらの名前を甘く囁いた。この上なく淫靡で危険な空気の中で。
果たしてせつらは何度も声を上げ、仰け反りそうになるのを必死で堪えたのである。
まぎれもなく欲情していた。
先程、手の平に口吻けを受けたおり、電流が走ったような痺れた感覚は性的な快感だったのだ。
自分を抑えるのに懸命だった。だがそうしてしまう事で甘美な感覚はより増徴されてしまう結果となった。
何を口走ってしまうのか解らなかった。
どうにかなってしまうのかと思った。
それでもせつらは熱い情欲に翻弄されながらも、その潮が退いて行くのに全力を傾けた。
逆らう気もなかったが、このまま大人しくされるがままとなるのも厭だったのである。
そんなせつらをメフィストはどう見ていたのか?
白い影は静かに見下ろしていた。そんなせつらの様を。
メフィストが一切の行為を中止する。
ふっと手を止め・・・、――――――影は淋しそうだった。
どういった気配を感じたものか、せつらがメフィストを見上げる。
お互いの視線が絡み合う。
そしてせつらは、自分が間違っていたのかもしれないと強く悟った。
何故ならばメフィストの瞳の中に、先程自分が目醒めた時に見て取ったあの表情が、そのままに残っていたからである。
これが、自分を力づくでも犯そうとしている男の眼差しだろうか?
せつらはその眼差しのために身を任せてもいいと思っていたのだ。
「メフィスト」
せつらは呼んだ。メフィストの名前を。
白い影は少し眼を見開いた。そんな口調でせつらがこの医師の名前を口にした事などなかったからである。
黙って凝視めている。
そして次の言葉を待った。
「やりなおそう」
若者の声には清涼な風の色合いが含まれていた。言葉の意味に伴う行為に相応しいものではなかった。
白い医師の口元に笑みが浮かんだ。
苦笑に近かったのかもしれない。この若者にはかなわぬよ・・・、と。
「承知した」
そう言って白い医師はもう一度、若者に触れた。
その途端に・・・――――、せつらは甘い声を放って絶頂に達した。
今度は堪えなかった。
メフィストの繊手はせつらで濡れた筈だが、その名残りはまるで見られなかった。
それは人の持つ手ではなかった。光を含んだように青白く神秘的に輝いていた。
だがそれもせつらの効果か。
白い影はゆっくりとせつらの上に覆い被さっていった。
青白い光は二人の全身に拡がった。
「せつら・・・」
メフィストが呼ぶ。せつらの名前を。
恍惚としてメフィストを見上げるせつらの表情には、淫らさなど微塵も見られない。あまりにも美しすぎるこの若者のそれは、添乗の神託を受ける巫女のように神々しささえ漂わせている。
メフィストがせつらのほつれ毛を、そっと指で除けていく。
「メフィスト・・・」
せつらが呼んだ。メフィストの名前を。
「いいよ・・・。来ても」
その言葉をどう受け取ったものか、白い医師は首をやや傾げながら言った。
「少し、違うな」
せつらにはその意味を図りかねたが、なんにせよこの医師のやる事だ。訳が解らない。
「君には私を感じてもらう。私自身を・・・。君を恍惚状態にしたのはそのためだったのだよ」
まるで講義を生徒に教え聞かせるような教授の口調だ。
今の状況を考えるとあまり相応しくないといえた。どちらにしても解らない。
せつらの手が伸びて――――せつらの方から!――――メフィストの身体に手を廻した。それに応えるようにメフィストもせつらの頬に手をあてて、せつらの唇にもう一度自らの唇を重ねて、深く口吻けていく。
せつらは素直にそれを受け入れた。
するとせつらの胸に哀しみにも似た感情が噴き上げ、だがそれは一瞬にて消え去った。
それから次に押し寄せて来た感情は、純粋な至福にも似た歓びだった。
何という歓びだったことだろう!
自分はもはや孤独ではなかった。自分は他の存在であり、それと同時にほかの存在は自分だった。大いなる宇宙の意識の中で、自分はその中にひとつに解け込んでいた。
絶望など必要ではなかった。
せつらはただ、その中に身をゆだねて漂っていればよかったのである。
そしてせつらは、―――――自分がもはや肉体を持たない事に気がついたのである!
生身の身体など、その法悦にも似た感覚の前には必要なかったのかもしれない。
いやしかし、それは必要であったろう。この若者ほどの美貌と肉体であれば。
確かに存在していたに違いない。
現にメフィストは何度も恍惚と、この若者の貌と身体に魅入っていたのだから。
それはメフィストから流れ込んでくる意識で解った。
視覚で見たわけではなかったが、そう感じたのである。