05

 〈魔界医師〉の意識?
 それは一体どんなものなのか。
 誰もが知りたいと望み、誰もが知った後の恐怖で戦(おのの)くであろう。
 だがせつらは確かに感じたのである。そして淡々とそれを受け入れていた。なんの拒絶もなかった。
 すべてはひとつに解け合っていた。
 融合していた。
 理解する必要もなかった。
 理解しようとする事は、自分と何かの間に隔たりがあるという事なのだから。
 ここにはそんなものもなかったのである。


『宇宙の秘密を知りたいかね?』
 メフィストはそんな事を囁いたのかもしれない。
 じかに聞いたというわけではなくて、それもそう話しているように感じたのである。
『おまえらしいね。そういうのは』
 せつらは笑ってそう答えたのかもしれない。
 いつしか二人は誰も住んでいない星に降り立っていた。
 それはまだ星の形をしていなかった。
『ここからすべてが始まる』
 メフィストが足元を視ながら答えた。
 せつらは黙って聴いていた。
『すべてが終わる時もここへ戻る』
 せつらはふむふむと頷いた。
『そしてすべてがここから始まるのだ』
 せつらは面白そうに笑った。
 すると星の形をしていたものは細かな煌めきの粒にと変わり、それは二人の周りを旋廻しながら、宇宙の彼方まで伸びていった。
 その輝きの一粒一粒が貴重でかけがえのないものであり、一つ一つにはっきりとした目的の意識が宿っていた。
 ばらばらに旅立って行った彼等は、いつの日にかお互いは一つであった事を知るだろう。
 その時に何もかもを憶い出すのである。


『せつら』
 メフィストが呼んだ。せつらの名前を。
 それは、その存在はもはや、せつらではなかったが。
『何?』
 そうせつらが答えた相手も、もはやメフィストではありえなかった、
『わかったかね』
 メフィストであったものが、そう訊ねた。
『かもしれない』
 せつらであったものが、そう答えた。
 もう一度笑いながら・・・。
 考える必要などなかったのだ。
 すべては一つだった。
 すべてが黄金の旋律を携えていた。
 我々はただ、その軌跡を渡っていきさえすればいいのだ。
『悪くないね』
 せつらであったものが頷いた。
『うん。こういうのは全然悪くない』
 せつらであったものがそう言うと、メフィストであったものが近付いて来て、それはもう一度一つに解け合い、消えていった。







 そして目醒めると朝になっていて、メフィストの姿は何処にも見当たらなかったのである。  
 せつらはいささか乱暴に、バスタオルを黄金でできた円卓の上に放り投げた。もちろんそれは、たちまちのうちに消えた。 
 そして扉の方へ顔を向けるとそれは音もなく開け放ち、せつらはすたすたと歩いて新しいバスタオルを棚から取り出した。それを腰に巻き付けてドレッサーの脇の棚に向かう。
 自分がいつも着用しているような衣服は見当たらない。
 少し考えていたが、最初に着ていたものと同じような白いバス・ローブを選んだ。
 他にも薄いブルーや薄いグレィ――――黒なんていうのもあった―――リラックスできるような部屋着はあったのだが、何故かそれを選んだ。
 メフィストの“白”に似ている。
 せつら本人は気づいていなかったが、ひょっとしたら理由はそんなところにあったのかもしれない。
 それを羽織って歩きながら前を掛け合わせ、部屋へと通じる扉へと向かう。
 少し足早に。
 扉は慌てて開いたようであった。


 せつらは部屋へと一歩足を踏み出すと、立ち止まって部屋の中を眺め廻した。
 部屋には何の変化も見られなかった。
 確かにベッドの乱れは綺麗に整えられていたし、大理石のテーブルの上には冷えた麦茶がボヘミアン・カットのグラスに入って置かれてはいたけれども、それはせつらの望むような変化ではなかったのである。
 せつらはグラスを手に取り、それと口元へと運びながらベッドに腰掛けた。
 そのまましばらくぼんやりと麦茶を飲んでいたが、ふと何を思ったのか立ち上がり、グラスを大理石のテーブルへと戻す。
 そしてすたすたと、相変わらずスリッパも履かずに窓辺へと向かう。
 カーテンの隙間に白い繊手を差し入れて、少し横へと除けた。
 外光の眩しさに眼を細めながら、外の様子を窺う。

 ここから眺め渡す限り、昨日の大火による猛襲はこの病院の周辺までは及んでこなかったようである。それでも視線を彼方へと移せば、まだ何箇所かもうもうと黒煙が立ち上り、被害の凄まじさを改めて思い知らされるようだ。
 しかしそれでもこの街はすぐにいつも通りの〈魔界都市〉たる姿を取り戻してゆくのだろう。
 これまでそうしてきたように・・・・・。
 “生”と“死”が等しく存在する街。
 ここでは同じ事だ、どちらも。
 どんな悪鬼も破滅する事は容易いが、生きる事に対する執念と、呪詛にも似た貪欲さをも抱え持っている街だ。ここは。
 例え世界に真の平和が訪れようとも、この街だけは血で血を洗うような闘いが変わらずに繰り広げられ、例え世界が神の裁きのハルマゲドンで滅びようとも、この街だけは生き延びていく事であろう。
 神の祝福にもっとも程遠いところにありながら、神の裁きにすら届かない。
 悪魔に祝福されているようで、その隷属に堕ちる事など赦さない。
 ――――――――何者にも侵されない街。〈新宿〉。 

 せつらはじっと、その景色を眺めていた。
 その表情は昨夜の大火に魅入られたものと同じではなかったが、大天使にしか与えられないような天与の美貌の横顔には、この街に対する憂いの翳は全く認められなかった。




『そうね。メフィスト病院なら地獄より安全』
 昔、そんな事を言った娘の言葉が憶い出された。
 あれはいつの事だったろう。
 ここでは時間ですらも意味を持たないものなのだ。
 あの熾烈な闘いの後、せつらは娘のためになるべく安全に静かに暮らしていけるような住まいと、仕事を探して与えた。
 それからは娘の暮らしぶりを情報屋から知る事はあっても、娘の方から何か言ってこない限り、直接に会おうとはしなかった。その方が娘のためにもいいと思ったのだ。
 しょせんは自分の事にしても、娘にとっては忌まわしい記憶の中の一人にしか過ぎない。
 それにこの街では、過去に囚われながら生きていくのは不可能である。
 あれから様々な出来事があったがこの病院だけは変わらずに、その白い外観を目の当たりにする者、または救いを求めて訪れる者に、限らない信頼と畏怖とを与え続けている。冷厳たる風格を持って。


“ここの院長と同じだな・・・”
 そう考えた時、せつらはいつのまにか我知らず白い医師の事を考えている自分に気がついて、思わず苦笑してしまった。

 いつまでたっても現れない相手にいささか腹も立ったが、昨夜の事があったからといって別段何が変わるというわけじゃなし、これからだって腐れ縁の関係は続行するだろう。
 自分は今までどおりに接していればいいわけで――――とはいうものの多少の嫌がらせは考えていたが――――別に相手が何を考えていようと気に病むことじゃない。
 例え“僕”が“私”に変わらなかった事で、あいつが勝手に失望していたにしたところで・・・・・。



「うん。帰ろう」
 せつらはそう自分に言い聞かせるように頷きながら、、部屋を見渡して洋服ダンスを捜した。
 窓の位置から左方に壁に備え付けられたタンスの両扉が眼に入ったので、その前まで歩いて行って、扉が開くのを待った。
 開かない。
 部屋の魔力はいつのまにか消えたのだろうか。
 思わぬ部屋のストライキにいささか眉を顰め、「こらッ」と言いかけた時に突然、まるで部屋中が歓びに震えるように輝き出した。薄暗かった部屋がカーテンを開けたわけでもないのに、光が黄金の洪水となって満ち溢れたのである。
 理由は解りきっていった。
 せつらは、わざとゆっくり振り向いた。
 いつのまに入って来たものか、ベッドの脇にはこの部屋の創造主が白い姿をとって佇んでいたのである。
 せつらはいささか胡散臭そうに、その白い影に向かって言った。


「本物?」
 間の抜けた質問だが、今迄の部屋の主人に対する振舞い方を思い起こせば、当然といえるかもしれない。
 だが秋せつらに、ドクター・メフィストの姿が本物か贋物か見分けられないなんて事があるのだろうか?
 否。あろう筈がない。
 解ってて言っているのである。
 ようするに嫌がらせの始まりというわけだ。長年の付き合いでメフィストにもそれが解るのだろう。
 わざとらしく咳払いをしながら答える。
「そのつもりだが」 
 まあ形はどうであれ、一夜を共にした妖美な二人の朝の会話としては、これまた間の抜けた会話の始まりといえた。
 せつらはじっとメフィストを視ていた。
 茫洋としてはいるが、本人は睨みつけているつもりである。
 メフィストの様子に、どこかぎこちないものが感じられる。
 無論、この若者にしか感じられない程度だが・・・。

 だが、せつらの知った事ではない。
 関係ないさという風に肩を竦めて、感情を込めないようにしてぶっきら棒に告げた。
「忙しいみたいだし、僕は帰るよ」
 “僕”のところだけをいささか強調している。
 メフィストは不思議そうにせつらを見ていたが、せつらがタンスの取っ手に手を掛けて扉を開けようとするのをみて、慌てて側へと寄りその手を押さえた。
「待ちたまえ。今日は店は休みの筈だ。ゆっくりしていくといい」
 せつらはそっぽを向きながら、やんわりとメフィストの手を除けた。
「あいにくと別の用が立て込んでいる。帰らなきゃならない。おまえほど忙しくはないけどね」
 最後の方は厭味ったらしかった。
 メフィストは何が何だか解らぬようで、それでも何とかこの若者を引き止めようと申し訳なさそうに口を開いた。
「君を今迄放っておいた事ならすまない。だが急ぎの用はない筈だ。せめて朝食ぐらいは摂っていきたまえ」
「おまえね」
 今度は誰が見てもはっきりと解るようにメフィストを睨みつけると、一瞬の間を開けて押し殺したような低い声で言った。
「人の電話を聴いていたな。プライバシーもわきまえない節操なしとは知らなかったよ」 
 メフィストは沈黙。
 だが哀しそうに眼を伏せた。